風のなかにことばを探して ―その2―
志 村 文 隆(日本文学科 教授)
今日の出発地は仙台である。東北地方の特に太平洋側に住んでいる人なら、よく聞く風の名前に違いない。北東や東から吹いてくるヤマセである。この名は地元の新聞記事にも大きな見出しで登場することがある。オホーツク海高気圧から吹きつける冷たい風のことで、これが原因で初夏から夏にかけて低温や日照不足に見舞われることがある。冷害の元凶となる風であり、農家などではこの風には特に強い関心を持たざるを得なくなる。無関心ではいられないのだ。一方で、東北の日本海側では、東風であるヤマセはかつて帆船の出港に都合のよい風だった。
それでは支度を整え、北海道へと渡ってみよう。調査票もICレコーダーも持った。お話をしてくださる方へのお礼の品物もそろっている。準備万端だ。
函館市内にある入舟町(いりふねちょう)の漁師たちに風の名前を教えてもらう。この地区の一部は旧町名を山背泊(やませどまり)と言い、函館山がヤマセの強風をさえぎることから、昔から船の停泊に適した入江を持つ。漁港からは函館山の頂が間近に見える。今晩はきっと夜景がきれいなのだろうな。
日も傾きつつある頃、沖合から船が次々と戻ってくる。風が吹いてくる方角ごとに、たくさんのことばを使い分けるというベテラン漁師に出会った。
次々とことばが登場した。アイノカゼ・アラシ・アイシモカゼ・ヤマセ・アガヤマセ・ミナミヤマセ・クダリ・ヒカダ(シカダ)・ニシカゼ・タマカゼ・アイタマカゼ・アラシ。何と12語もの風の名前を吹いてくる方位ごとに使い分けている。タマカゼ〈北西風〉・アイタマカゼ〈北北西風〉・アイノカゼ〈北風〉の互いの間隔は角度にして25度にも満たない。洋上で遠くの地形などから船の位置を把握しながら、わずかな風向きの違いを身体で捉えてことばにしてきたと話す。職人技である。
ふっと北の方に漁師は顔を向けた。「アイだな」。『万葉集』にも「あゆ」という名で登場し、現代の日本語ではほとんど聞かれなくなったことばも、ここでは現役だ。
こうした風の名前は漁師にとって仕事道具でもあり、たくさんの情報がことばというカプセルのなかに包み込まれている。ことわざのように意味が言い伝えられてきたという例も教わった。「アイのアサナギ(朝凪)、クダリのヨナギ(夜凪)」(アイノカゼの吹く朝は一時的に波が穏やかになり、日中クダリが吹いていても夜になると波は穏やかになる)。
風は一定方向にとどまらない。時間や天候によって次々と向きを変えてゆく。その強さも一様ではなく、急に強風に変わったり、おとなしくなったりする。変わり身が速いのだ。常に出港と帰港の判断にも迫られる。
天気予報の情報は使われる。しかし、経験に裏打ちされた「風を読む」技が効くのだという。彼らは今吹いている風だけを見分けているのではなく、これから吹いてくる風の具合や天候の変化を自身で予測もする。風向ごとに円陣を組むように組織された風の名前には、天候の移り変わりに連動した回り順がある。
津軽海峡の漁師たちは、東から北へと反時計回りに風向が移動してくることをウジガワセと言う。この場合、天候が回復して漁には好都合な時間が訪れる。一方、時計回りのオギガワセ・ソドガワセの時はたいへんである。「オギガワセだ。シカダ吹いてくるから気をつけろ!」。ヒカタ・シカダは北海道や青森などの日本海側北部、津軽海峡などでは最も嫌われている南西風などを表す名前で、暴風になることがある。風向が南から西に回り出す時に恐ろしい顔を出すと言う。
洋上であるいは明け方の港で風を感じた漁師たちは、仲間たちに風の名前のカプセルを次々と投げ出してゆく。開いたカプセルからは、一瞬のうちに豊かな情報が仲間たちに伝わってゆく。
文房具売り場などで見かけるものにインデックスシールがある。見出しになることばなどを書いて、ファイルやノートの横から少しはみ出すように貼って使う。シールに指をかけて、貼られたそのページを開くと、さっと本文の中身を見ることができる。様々なウェブサイトでもおなじみのグローバルナビゲーション(グロナビ)のようなものと言ったらいいだろうか。インデックス部分をクリックするとカプセルが開くかのように、該当のページがたちまち現れ、ノート部分が展開していく。
ベテラン漁師たちが駆使するこうした多彩な風の名前は、まるでインデックスが立ち並んでいるかのようだ。しかも注目すべきなのは、その見出し一枚一枚に該当することばはひとりぼっちでたたずんでいるのではなく、ほかのことばたちと輪を作って手をつなぎあっていることである。
アイシモカゼというインデックスを漁師が開く。ことばがたちまち展開する。「天候は雨などで良くないが海の状態は必ずしも悪くない、しかし、反時計回りであるウジガワセの時に吹けばタマカゼに向かって天候が悪化、反対に時計回りのオギガワセでは天候が回復……」。こうして待機中のほかのことばも同時に繰り出されて立ち上がってくる。漁師が使う風のことばたちは、いつも集団行動をしていると言っていい。
話を聞いているうちに、すっかり日も暮れてしまった。ここは北海道だった。日が少し短いのだなあ。ライトをともしたロープウェイが頻繁に往来する函館山を見上げながら、急いで宿に戻る。データを整理するのは、記憶が新鮮な当日のうちに行うことが肝要だ。「一つのことば(語)だけを見つめるのではなく、複数のことばたち(語彙)を同時に観察することで世界が見えてくるぞ」。調査後はついひとりごとが多くなる。
さて、次回は沖縄を目指すことにしよう。あの発電用の風車や、煙突の煙を動かしていた風の名に、どこかで巡り合えるだろうか。
参考:志村文隆「風と天候の方言語彙」小林隆編『方言の語彙-日本語を彩る地域語の世界-』朝倉書店、2018
(写真:筆者撮影)