干祿 お給料が欲しい人のための心得 ―
菊 地 恵 太(日本文学科 准教授)
お金が欲しい…というのは大概の人が持っている欲望だとは思いますが、目の前に当籤した宝くじでも落ちていない限り(拾得物は警察に届けましょう)、まとまったお金を稼ぐためにはやはり何かの仕事にありつかなければなりません。
漢文の授業でおなじみの『論語』(巻一・為政第二)には次のような一節があります。
子張学干禄。子曰、多聞闕疑、慎言其余、則寡尤。多見闕殆、慎行其余、則寡悔。言寡尤、行寡悔、禄在其中矣。
冒頭の「子張」というのは孔子の弟子ですが、注目したいのは「干禄」の部分です。「禄」は俸禄、つまりお給料や報酬といった意味でしょう。「干」は現代日本では「干す」とか「干からびる」の意味が真っ先に思いつきますが、実に多様な意味で使用される漢字で(「欄干」「十干」「干渉」などいろいろあります)、ここでは「もとめる」の意味です。孔子の門人たちにとって「禄を干(もと)む」=「お給料欲しい!」(意訳)ということは、役人になって仕官することを目指すことでもあります。
というわけで、これを訳してみるとだいたいこんな感じになります。
子張が、(役人になって)俸給を稼ぐ方法を聞いた。孔子先生がおっしゃるには、「多くのことを聞いて疑わしいことを無くし、そうでないことを慎重に口に出せば過ちは少ない。多くのことを見て曖昧なことを無くし、そうでないことを慎重に行えば悔いは少ない。言葉に過ちが少なく、行動に悔いが少なければ、俸給はその中にある(自然と手に入る)ものだ」という。
孔子のこの返答は、決して空々しい綺麗事ではなく、無駄に努力しろとか勉強しろとか言っているわけでもなく、誰もが自分の能力の範囲内で心掛けられそうな内容だと思います。
また、この「干禄」の話は大学での勉強や研究、学問にも当てはまりそうな気がします。たくさんの知識を身につけたり、研究のために多くの文献を調べたり(或いは実験を重ねたり)して、曖昧な問題を地道に潰し、慎重に考察を進めていけば、少しずつでも研究の成果は見えてくるものです。それだけ悔いは少なくなり、慎重さが却って自信に繫がるわけです。調査・実験の結果を曲解し、或いは捏造してしまうようなことは研究倫理としても言語道断ですが、そうならないための「慎言其余」「慎行其余」なのです。そう自戒して自分自身も研究を続けているつもりですし(成果が出ているかどうかは別として)、学生にもこうした研究態度を大切にして欲しいと思っています。
話は変わりますが、時代はさらに下って唐の時代、『干禄字書』というド直球(?)な名前の字書が作成されました。顔元孫という学者によって編纂され、大暦9年(774年)に石碑として石に刻まれたものです(文字は元孫の甥で書家として有名な顔真卿によるもの)。石碑は現存しませんが、それを直接写し取った拓本や、それを基にした版本がいくつも作られました。ちなみに次のリンク先の『干禄字書』は日本で文化14年(1817年)に刊行されたものです。
早稲田大学図書館古典籍総合データベース 干禄字書
/www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho04/ho04_02059/index.html
当時、漢字の形(字体)には様々なバリエーション(異体字)が存在し混乱が生じていましたが、この『干禄字書』は、超難関の官吏登用試験であった科挙の答案や公的文書などで用いるべき「正体(せいたい)」(正統・正式とされる漢字字体)と、その他に一般に用いても良いとされる様々な字体(「通体」「俗体」)の区別の基準を定めたものです。これでしっかり異体字の区別を勉強して、科挙に受かってお給料稼ごうぜ!というノリ…だったのかどうかは定かでありませんが、少なくとも後年何度も石碑から拓本が取られ、また本として出版され、人口に膾炙したことは確かなようです。
科挙ほどの難関ではないにせよ、漢字検定や日本語検定など、現在でも様々な検定試験を受ける人は多いでしょう。どのような場面で、どのような言葉や文字を使うのが適切なのかという知識は、恐らく「禄を干むる」上で役に立つこともあろうかと思います。表面的な正誤に囚われるのでなく、言葉や文字の多様性を学んだ上で、その使い分けをしっかり習得することこそが、言語生活の要と言えるでしょう。ですから皆さんには、言葉の勉強を地道に続け、どんどん禄を干めていってもらいたいと思います。