「黒塚」の巻 ―其の四 ―

深 澤 昌 夫(日本文学科 教授)

ところで、観世寺の安達ヶ原・黒塚伝承に関してちょっと気になっていることがある。

観世寺に伝わるところによれば、寺内にある「岩屋」は鬼婆が生前暮らしていた家で、鬼婆を葬った墓はそれとは別に、寺のすぐ外、阿武隈川の川畔にあって、それが「黒塚」である、ということになっている。

だが、安達ヶ原の「岩屋」と「黒塚」は、はたして別物なのであろうか。

以前掲載した写真をご覧になればわかる通り、本物の鬼ならいざ知らず、あの岩屋はとてもじゃないが人が住めるようなところではない。

まあ、言い伝えを額面通り受け取る必要もないし、人も住めないようなところだからこそ鬼の棲み処にふさわしい、ともいえるのだが、「黒塚」という名称は、その本来の意味からすれば「暗い塚」あるいは「冥(くら)い塚」であって、当地の伝説に即していうならば、野中の一ツ家に宿りを求めて近づいた人々を死に至らしめ、そのおびただしい死骸を人目につかぬよう隠しておいた場所、つまり能の『黒塚』で老女が決して見てはならぬと言ったあの「閨(ねや)」こそが「黒塚」の正体ではなかったかと思われるのである。

 

では、「黒塚」が老女の「閨」(実は死体置き場)であったとして、なぜそれが「岩屋」でなければならないのか。

たとえば、以前紹介した那須野の原の殺生石は、妖狐の死後、その悪念が凝り固まって石化したもので、そこは今なお毒気を吐いて近づく者たちの命を奪い、死の世界に誘う危険な場所とされている。

あるいは、昨年我々が現地調査を行った一関・旧鬼死骸村にある鬼石は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の将オオタケマルを討ち果たした際、その死体の上に置いたもの、つまり墓石の一種であると伝えられているが、見方を変えれば、鬼石は自分たちが「鬼」と呼んだ蝦夷たちのよみがえりと祟り・復讐・リベンジを封じるための重石(おもし)だったのではないかと思われる。

さらに、そのオオタケマルが生前、平泉にほど近い達谷窟(たっこくのいわや)を本拠地にしていたという伝承もあるように(奥浄瑠璃『田村三代記』)、この世に災厄をもたらしかねない恐るべき存在は、どれもこれも石・岩・岩屋・洞窟・石窟などと深いつながりがある。「岩手」という地名・人名しかり。四世鶴屋南北の傑作『東海道四谷怪談』の「お岩様」などもまた、その系譜に連なる一人である。

 

だがしかし、石や岩に関係があるのは何も鬼や妖怪だけではない。

妻の死を悲しむあまり、せっかく黄泉(よみ)の国まで迎えに行ったのに、「決して見てはならぬ」という戒めを破って妻の姿を見、妻の怒りを買い、その姿に驚いて這う這うの体で逃げ出した(あれ? この話どこかで…)イザナキは、黄泉比良坂(よもつひらさか)に千人がかりでないと動かせないような巨石を据えてイザナミの追撃をかわす。以来、生者の世界と死者の世界は、この「千引の石(いわ)」によって明確に隔てられることになったという。

あるいは、スサノオの乱暴な振る舞いに怒りアマテラスが引きこもったのも「天之岩屋戸」(古事記)、あるいは「天石窟」(日本書紀)であった。これによって世界は光を失い、暗闇に閉ざされてしまうのだから、天の岩屋というのはアマテラスの光をも通さない、一種のブラックホールのようなものである。

これらはほんの一例に過ぎないが、神であれ、鬼であれ、古来さまざまな言い伝えや信仰の残る巨石・奇岩・岩屋・石窟は、どうやら冥府・冥界・死の世界に通じる「禁忌の扉」と考えられていたらしいのである。

 

ついでに言うと、「安達ヶ原/あだちがはら」というのも実はいわくつきの地名である。

たとえば埼玉の大宮(古くは武蔵国)に「足立ヶ原」があり、東光寺という禅寺に那智の宥慶(ゆうけい)阿闍梨が旅人を襲う悪鬼を退治した、という言い伝えがある。また、東京浅草浅草寺には「安達ヶ原」ならぬ「浅茅ヶ原の一ツ家」伝説がある。

五来重氏がつとに指摘されているように、「安達ヶ原は陸奥ならずともどこにでもある」のである。そして「あだち(が)原」という地名は、「あだし野」「あだし(が)原」同様、もともと葬送の地、死者供養の地であった(五来重『鬼むかし―昔話の世界』角川ソフィア文庫)。

であればこそ、安達ヶ原の「黒塚」は「岩屋」と同じもの、つまり「岩屋」の異称・別称であったと思われるのだが、皆さんはいかがお考えだろう。

 

もう一つ言うと、安達ヶ原の鬼は、後世いわれるような、人間を襲い、喰らい、死に至らしめる非情の存在ではなく、本来「黒塚」に眠る死者たちの番人、守り人だったのではないかと思われるが、その話はいずれまた。

 

【おわり】

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