「黒塚」の巻―其の二―
深 澤 昌 夫(日本文学科 教授)
みちのくには「鬼」がいるらしい。
そのことを最初に歌に詠んだのは平兼盛である。
みちのくの 安達の原の 黒塚に 鬼こもれりと いふはまことか
(『拾遺和歌集』巻第九、559番歌)
もっとも、歌の詞書(ことばがき)を見ると、「陸奥国(みちのくに)名取の郡(こほり)黒塚といふ所に、重之がいもうとあまたありとききて、言ひつかはしける」とあって、ここでの「鬼」はいわゆる角の生えた恐ろしい「鬼」ではない。
ちなみに、この話は『大和物語』にも収録されていて、同じ歌が
みちのくの 安達が原の 黒塚に 鬼こもれりと きくはまことか
(『大和物語』58段)
というかたちになっていたり、源重之(父兼信は安達郡に土着。重之も陸奥守藤原実方に同行してみちのくに下向)の「いもうと」が「むすめども」になっていたりと、字句・文言に若干の異同はあるが、要するに兼盛が詠んだ安達原の黒塚にこもっているという「みちのくの鬼たち」は、都から遠く離れた陸奥の国に暮らす重之ゆかりの「箱入り娘たち」のことであった。
なぁんだ、である。
「鬼」とか「黒歴史」とか言って、脅かさないでくださいよ(笑) である。
だが、戯れ、冗談、ざれごととはいえ、平安時代の人々の間でこういう言い方が成り立ち、意思疎通に支障がなかった、ということは、それ以前の段階で「みちのくには鬼がいる」「鬼は黒塚にこもっている」という了解がすでにあった、ということになる。
やはり、東北、みちのく、奥州には「鬼」がいたのである。
少なくとも平安京の人々はそう思っていた。
能に『黒塚』という作品がある。
作者不詳ながら、『道成寺』『葵上』とともに能の「三鬼女」に数えられる重要な作品で、たいへん見どころも多い。
どんな話?
こんな話である。
熊野は那智の東光坊に祐慶という阿闍梨がいた。祐慶は仲間とともに廻国修行の旅に出た。一行は長いことかかってようやく陸奥に足を踏み入れるが、その途次、安達ヶ原で行き暮れて野中の一軒家に宿りを求める。
宿の主は老女であった。老女はあたりに人家もない荒涼とした土地で、たった一人糸繰りをして細々と暮らしていた。山伏の突然の来訪と一夜の宿を借りたいという思いがけない申し出に老女は当初躊躇、困惑するが、旅人を気の毒に思って一夜の宿を貸すことにした。
季節は秋。夜になると寒さも増す。老女は一行のために焚火をしてあげようと、わざわざ薪を取りに夜の山に入っていく。その際老女は、自分が留守の間、決して閨(ねや=寝屋、プライベートルーム)を見ないようにと言い残していく。
ところが、たいていの伝説・昔話がそうであるように、こうした約束は必ず破られる運命にある。能の『黒塚』でも一行に仕える身分の低い能力(のうりき…荷物運び)が好奇心を押さえきれず、つい閨の中を覗いてしまう。するとそこには累々たる死体の山、山、山…。
一行はおびただしい数の死体と堪えがたい腐乱臭に驚き恐れ、これこそ「安達原の黒塚に、籠れる鬼の住処(すみか)なり。恐ろしや、かかる憂き目をみちのくの、安達原の黒塚に、鬼籠れりと詠じけん、歌の心もかくやらん」と、取るものもとりあえず、這う這うの体で逃げ出す。
閨を見られたことに気づいた老女は人々の仕打ちを恨み、怒り、執拗に後を追いかけるが、祐慶阿闍梨はその法力によって鬼女に立ち向かい、これを祈り伏せ、難を逃れるのだった。
平安時代の話では「結婚前の箱入り娘」であったものが、中世になると「孤独な老女」になり、しかも「殺人鬼」か「食人鬼」のごとき恐ろしい存在、いわゆる「鬼一口」的存在に書き替えられている。つまり「黒塚にこもっているという鬼」は、たとえでも戯言(ざれごと)でもなく、文字通り「鬼」そのものになっているのである。
だがこれは、ある意味「先祖返り」というべきで、『黒塚』の鬼女伝説のようなものも都人たちのみちのくに関する何か「冥(くら)い記憶」が呼び覚まされて、今に伝えられているのではなかろうか。
みちのくはもともと「道の奥」であり、都人にとってははるか彼方のどこか得体のしれない「未知の国」だからである。
安達ヶ原の鬼婆伝説は、近世(江戸時代)になると、なんと東北にもう一つの王朝を築こうとする壮大なスケールの話になる。
人形浄瑠璃の大作、近松半二の『奥州安達原』(宝暦12年/1762、大坂・竹本座初演)である。
半二は本作において件の老女に前九年の役で討死した安倍一族の長 安倍頼時の未亡人という設定と「岩手御前」という名を与えている。
岩手(いわで)御前は平安京を都とする既存の朝廷に対抗して奥州にもう一つの王朝を作ろうと皇弟・環の宮(たまきのみや)を誘拐するが、環の宮はどういうわけかことばを発することのできない難病に侵されていた。その病の治療にはある特別な「血」が必要だった。そこで岩手は偶然訪れた旅の妊婦に目を付け、彼女を殺し、その腹を裂き、胎児を取り上げ、その生血をしぼりだす。ところが、自ら手にかけた若い女は長らく生き別れになっていた実の娘(名を恋絹という)だったのである…
と、このようにあらすじを書いているだけでも「ひどい!」「なんて残酷な!」「鬼!」「人でなし!」「人非人!」などという声が聞こえてきそうである。まったく、人形芝居とはいえ、半二はすさまじい話を書いたものである。
もし「安達ヶ原・歴代鬼婆〈凶悪〉ランキング」なるものがあれば、近松半二の岩手は間違いなく史上最凶の鬼女としてランクインするだろう。だが、彼女は人を殺してその肉を喰らうような「人外」ではない。はたまた九尾の狐のような妖怪でもないし、全くことばの通じない異人や野獣でもない。
岩手御前はあくまでも「人間」なのである。その、ほかでもない「人間」が、大義であれ何であれ、おのれの信じるもののために平気で人の命を奪う。あるいは自分たちの国や政治体制を守るために他人の未来を無残に奪う。それがまだこの世に生まれてもいない胎児であっても、岩手にはためらいも逡巡もない。
そして、それと同じことが、同じようなことが今まさに海の向こうで起きている。この21世紀に「まさか!?」と思うが現実である。いったい、「鬼」って何なのだろう。