キになる言の葉 ミになる話 ―2022近代文学ゼミ「まほろば幻視行」道中記 -その3- ―

キになる言の葉 ミになる話

 2022近代文学ゼミ「まほろば幻視行」道中記 -その3-

千 葉 幸 一 郎(日本文学科 教授)

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(承前)
3-1研修旅行もいよいよ3日目。今日は残念ながら雨模様。9時にホテルを出発し、JR奈良駅前から市内循環バスに乗って奈良公園方面へ。車窓から奈良公園の鹿さんたちを眺め、東大寺大仏殿・春日大社前で下車する。降りるとすぐに鹿さんたちのお出迎え。かつて吉永小百合が歌った「鹿のフン」を踏まないように気をつけつつ、大仏様に会いに行く。

休日ならば観光客でごった返す参道も、夏休みとはいえ8月末の平日、修学旅行の中学生一団以外に観光客と思しき人たちはほとんどいない。鹿せんべいをねだる鹿さんたちも心なしか悲しそうだ。近づいて来る鹿さんたちに「何も持っていないよ」と手をジャンケンのパーの形にして示しつつ参道を進み、まずは南大門で仁王様とご対面。そのいかめしいお姿は、日本史の教科書などでお馴染みでしょう。

3-3続いて主役の大仏様とご対面。何度拝見しても大きいと思う。桂米朝が落語「鹿政談」のマクラで「大仏に、鹿の巻き筆、あられ酒、春日燈篭、町の早起き」と奈良名物をあげるが、筆頭に来るのはやはり大仏様である。かの會津八一は、大仏様について「おほらか に もろて の ゆび を ひらかせて おほき ほとけは あまたらしたり」と詠んでいる。

ご存知の通り、大仏殿はかつて二度消失している。一度目の様子は『平家物語』で次のように語られる。

夜いくさになッて、くらさはくらし、大将軍頭中将、般若寺の門の前にうッたッて、「火をいだせ」と宣ふ程こそありけれ、平家の勢のなかに、播磨国住人、福井庄下司、二郎大夫友方といふ者、楯をわり、たい松にして、在家に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なりければ、風ははげしし、ほもとは一つなりけれども、吹きまよふ風に、おほくの伽藍に吹きかけたり。恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂にてうちじにし、般若寺にしてうたれにけり。行歩にかなへる者は、吉野十津河の方へ落ちゆく。あゆみもえぬ老僧や、尋常なる修学者、児ども、をんな童部は、大仏殿の二階の上、山階寺のうちへわれさきにとぞにげゆきける。大仏殿の二階の上には、千余人のぼりあがり、かたきのつづくをのぼせじと、橋をばひいてンげり。猛火はまさしうおしかけたり。をめき叫ぶ声、焦熱大焦熱、無間阿毘のほのほの底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。[中略]東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏とおぼしめしなずらへて、聖武皇帝、手づから身づからみがきたて給ひし。金銅十六丈の廬遮那仏、烏瑟たかくあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫新にをがまれ給ひし、満月の尊容も、御くしは焼けおちて大地にあり。御身はわきあひて山のごとし。(引用は『新編日本古典文学全集45 平家物語①』小学館、1994.6、414〜416頁より)

民家に付けた火が折柄の強風によって瞬く間に広がり、東大寺近辺にまで延焼する。あたり一面燃え盛る炎のなか逃げ惑い、焼け死んでいく人々の様子が克明に語られる。この場面を琵琶法師の語りによって耳で聴いた人々は、その凄惨さを想像し、息を飲んだに違いない。

3-4大仏殿を出ると雨もあがっていた。傘を閉じて春日大社へ向かう。春日大社に続く参道には、大小様々な燈篭がある。先に挙げた「鹿政談」のマクラでは、奈良名物として「春日燈篭」も挙げられていましたね。なお、マクラは「春日燈篭を全部数えたら長者になる」と続く。長者になるのは大変だ。少なくとも数字に弱い私のような人間にはとても無理です。

春日大社の朱塗の本殿を参拝した後、春日の森の中、元々は高畑に住む禰宜さんたちが神社まで通う道だったという「ささやきの小径(下の禰宜道)」を通って志賀直哉旧居へ向かう。後に「小説の神様」と言われるようになった志賀直哉は、1883年(明治16)に石巻で生まれた。当時、父直温が第一銀行(現在のみずほ銀行)石巻支店に勤務していたためである。転居癖があった志賀は1925年(大正14)に京都の山科から奈良へ移り、1929年(昭和4)に自ら設計した高畑の家へ引っ越したのである。なお、志賀直哉旧居は現在、奈良学園のセミナーハウスとなっており、館長の大原荘司先生(奈良学園大学名誉教授)に邸内を詳しくご案内いただいた(アポなしにもかかわらず、ありがとうございました)。

3-6志賀は子供の教育のことを考えて1938年(昭和13)に東京へ移るまでここに住み、長編小説『暗夜行路』を完成させた。志賀は引っ越す直前に発表した「奈良」という随筆の中で、次のように書いている(写真の机で書いたのですね)。
兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残つてゐる建築も美しい。そして二つが互に溶けあつてゐる点は他に類を見ないと云つて差支へない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠が美しいやうに美しい。(「奈良」、引用は『志賀直哉全集 第七巻』岩波書店、1974.1、240頁より)

ちなみに「志賀直哉は『奈良にうまいものなし』と言った」とされるが、おそらくこの随筆のなかにある「食ひものはうまい物のない所だ」という一節が元になっていると思われる。志賀在寧中はそうだったかもしれないが、今はおいしいものがいっぱいありますよ。

志賀直哉旧居を出て、午後からは自由行動とした。ということで、本日は早仕舞い! 久しぶりに奈良町をぶらぶらし、「春鹿」の蔵元「今西清兵衛商店」で利き酒を楽しんだ後、ほろ酔い気分で「カナカナ」のランチを堪能した。ん〜、極楽極楽。

3-7夕方、希望者と近鉄奈良駅から電車に乗り込み、阪神甲子園球場へ! 試合開始の直前に強い雨が降り出し、一時は「試合中止か!?」と諦めたものの、1時間ほど待ってようやくプレイボールがかかる。0対0の投手戦で進んだ8回裏、4番大山のレフトスタンドへ飛び込むホームランによって均衡が破れ、そのまま1対0で試合終了。「六甲おろし」を絶唱する。帰りは阪神とJRを乗り継ぎ、ホテルに戻ったのは日付が変わる直前・・・今日も長く充実した1日であった。