ちょっと気になる名簿の漢字(2) 禾vs示
菊 地 恵 太(日本文学科 准教授)
前回の記事では、人名に使える漢字の種類や異体字が平成16(2004)年に大幅に増えたというお話をしましたが、こうした漢字に関する施策では、僅かな字体の差が問題になることもあります。
まずは間違い探しです。「リンとした」とか「リリしい」という言葉にも使われる「リン」(「さむい・つめたい」の意味)という漢字がありますが、下の2字は異体字の関係です。違いはどこでしょうか。(見にくい場合はブラウザを拡大して見て下さい)
凜 凛
よく見ると右下の部分が違いますね。左の方は「禾」(通称「のぎ」)、右は「示」になっています。本学にもこの「リン」の字を名前に持つ学生が何人もいるようで、人名として人気の高い字と言えるでしょう。
問題はその字体です。皆さんは普段「リリしい」などと書くときにどちらの字体を使うでしょうか(もっとも、常用漢字ではないので学校で習うわけでもなく、日常的に自分で書く機会もないかもしれません)。一見するとほとんど差が無いように見える字体ですが、人名用漢字としての扱いはかなり異なります。
この「リン」の字はもともと当用漢字でも常用漢字でもなかったのですが、現行の法制下で人名での使用が認められたのは平成2(1990)年の改正(118字追加)以降です。この時人名用漢字に追加されたのは「凜」(禾)の方でした。
一方、「凛」(示)が人名用漢字に加わったのは、大規模追加が行われた平成16(2004)年のことです。アニメやゲームなどの登場人物では「凛」(示)の方を使う人が多い気がしますが注1、現実の戸籍上では平成16年9月27日以降に出生届を提出した人でなければ使えません(但し、それ以前に生まれた人でも、後で家庭裁判所に申立を行い、改名や字体変更が認められるケースがあります)。
パソコンで変換してみるとどうでしょうか。私が持っているパソコンWindows 10(バージョン 22H2)に標準搭載されている「Microsoft IME」では、「りりしい」の変換候補は「凛々しい・凛凛しい」(示)しか出てきませんでした。「凛然(りんぜん)」「凛冽(りんれつ)」という熟語も同様です。私が普段使っている変換ソフト「ATOK(エイトック)」(バージョン33.0.4)では「凜々しい」「凜然」(禾)も出ましたが、初期状態では「凛冽」は「凛」(示)しか出ません。これらの扱いを見ると、どうやら「凛」(示)の方がやや優勢のようです。
ところが、一般的な漢和辞典を引いてみると、大きな見出し(親字)として載っているのは「凜」(禾)の方です。ひとまず手元にあった各社の漢和辞典(小学館『新選漢和辞典』、三省堂『全訳漢辞海』、大修館書店『新漢語林』、角川書店『角川新字源』、学研『漢字源』)は、いずれも「凜」を大きく載せ、「凛」はその異体字扱いとなっています。つまり、現代日本の漢和辞典が正式な字と見なしているのは禾の「凜」の方だということです。
昨今の一般的な漢和辞典が正字体の典拠としているのは、1716年に中国(清)で編纂された『康煕字典(こうきじてん)』です。これは、当時の皇帝・康煕帝(玄燁(げんよう))の勅命で編纂された字書で、それまでの中国で編纂されていた様々な字書の記述を取りまとめた内容になっています。皇帝の命令による字書というだけあって、当然権威も高く、日本への影響も多大なものでした。近代日本の活版印刷では、この康煕字典に掲げられている字体を基準として活字が作られ、正式な字体と見なされてきました(例外も少なからずあります)。
ところが厄介なことに、「リン」の字については、康煕字典が正字として掲げているのは右の画像の通り「示」の「凛」の方なのです(康煕字典網上版/www.kangxizidian.com/v2/index.php?page=613 ハーバード大学図書館蔵本)。実は、これは康煕字典の見出し字が誤っていると思われる例で注2、同じ部品を持つ「稟」や「懍」はきちんと「禾」になっていますし(/www.kangxizidian.com/v2/index.php?page=4091 /www.kangxizidian.com/v2/index.php?page=1935)、「凜」の異体字とされる「癛」もやはり「禾」です(/www.kangxizidian.com/v2/index.php?page=3741)。ちなみに、唐の時代に編纂された、漢字の正字の基準を示した書物『五経文字(ごけいもんじ)』(776年編)でも、「凜」(禾)という形が示されているのが分かります(早稲田大学図書館古典籍総合データベース/archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ro12/ro12_00250/ro12_00250_0003/ro12_00250_0003.html リンク先の12ページ(1810年に日本で刊行されたもの))。そこで、現代の漢和辞典では「凜」(禾)の方を正字として“補正”しているわけです。ただ、清朝以前の中国の主要な字書でも「凛」(示)を掲げているものがあるため、「示」と「禾」の区別は相当紛らわしいものだったのでしょう。
こうした事情もあったせいか、近代日本の活字でもいくらか混乱が見られます。朝日新聞「ことばマガジン」の記事(2011年7月18日)/www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/moji/2011071700001.htmlによれば、明治~昭和前期の新聞記事では「凛」(示)が主流であったといい(「凜」も混用)、恐らく日本人にとって馴染みが深かったのは「凛」(示)の方と言えます。特に、小さい活字では印刷時に潰れてしまうこともあり、それが「禾」と「示」の区別をさらに困難にしていると思われます。昭和53(1978)年に初めて制定された、JIS(日本工業規格(当時))の符号化文字集合(コンピューター上で使用できる文字を定めた規格)でも、採用されたのは「凜」(禾)ではなく「凛」(示)の方でした(JIS C 6226-1978「情報交換用漢字符号系」)。
ところが、平成2年の戸籍法改正では、正字として“補正”された「凜」(禾)の方が人名用漢字に採用されることとなり、JISの文字集合にも「凜」(禾)が追加され(JIS X 0208-1990)、現在では「凛」「凜」ともにパソコンなどで出入力できるようになっているわけです。結局平成16年に「凛」(示)も人名用漢字に追加されたため、余計に混乱が生じてしまったような印象は否めませんが、ともかくも「凜/凛」の字を手書きで書いたり、パソコンやスマホで変換したりする場合は、右下の形がどちらになっているか、気にするようにした方が良さそうです。特に、手紙やメールの宛名で相手の名前の字体を間違えると、失礼になってしまうかもしれません。
このような些細な差ではありますが、歴史的に見ると複雑な事情もあり、それが近代の活字や現代のコンピューターの文字にまで影響を及ぼしていることもあります。これが漢字字体(異体字)の厄介なところであり面白いところです。
(また続く?)
注1:参考までに、ピクシブ百科事典「凛」/dic.pixiv.net/a/%E5%87%9B「凜」/dic.pixiv.net/a/%E5%87%9C
参考サイト
朝日新聞「ことばマガジン その右下が悩みのタネ ―変換辞書のはなし3」(比留間直和)
/www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/moji/2011071700001.html
三省堂「ことばのコラム 人名用漢字の新字旧字 第16回「凛」と「凜」」(安岡孝一)
/dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%E7%AC%AC16%E5%9B%9E%E3%80%8C%E5%87%9B%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%87%9C%E3%80%8D