【もりのこどもえんだより:巻頭言】迷子と<かくれんぼ>

迷子と<かくれんぼ>

末光 眞希

夏休み、いかがお過ごしだったでしょうか。にぎわう場所に家族で出かける時、心配なのが迷子です。我が家も例外ではありません。長男(当時8歳)は、私と妻がともに「むこうが見てくれていると思った」時を狙いすまし、忽然と姿を隠したのでした。さいわいにも無事保護された我が子とほどなく再会できましたが、待つその時間の長かったこと長かったこと。外国のテーマパークでの出来事でした。複数の大人がいる時は、誰がその子(たち)を気にかけるのか、いつも決めておかなくてはいけませんね。

迷子ではなく、自分の意志で隠れる遊びがあります。<かくれんぼ>です。考えてみればこんな不思議な遊びもありません。みんなに見つからないように隠れ、そして最後に見つかるゲーム、それが<かくれんぼ>です。そう、最後は必ず見つからなくてはいけません。昔、隠れるのが天才的にうまい子がいました。あまりにうまく隠れるので友だちはついに捜すのをあきらめ、ほかの遊びを始めます。するとその子はみんなの前に姿を現して怒るのです。「どうしてさいごまでさがさないんだ!」そして喧嘩が始まるのでした。完璧に隠れたら<かくれんぼ>になりません。私たちは見つからなくてはいけないのです。

<かくれんぼ>は人類最古の遊びではないでしょうか。隠れることと見つかることは、何か人間存在の根源に触れるものを感じさせます。(わが家の人気ナンバーワン絵本は「押入れの中の冒険」でした。名著です!)アダムとイブも隠れました。彼らはエデンの園(その)で<善悪の知識の木の実>を食べ、少し賢くなり、神さま抜きでやっていけるんじゃないかと思いました。だからその日の夕方、エデンの園に神さまの足音が聞こえた時、ふたりは反射的に隠れたのです。ふたりは隠れ、そして迷子になりました。「あなたはどこにいるのか」ふたりを捜す神さまの声が園に響きます。「あなたはどこにいるのか」私たちを捜すイエスさまの声が今日も聞こえます。さあ出て行きましょう。私たちは見つからなくてはいけません。

(もりのこどもえんだより9月号掲載)