2022年度9月期学位記授与式 学長式辞

卒業生に贈る言葉
学位記授与式式辞

最初に聖書をお読みします。
フィリピの信徒への手紙 三章十三節~十四節。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。同期の仲間より、半年遅れての卒業となりました。半年という時間は、若い皆さんにとって決して短いものではなかったことでありましょう。しかし長い人生を考えるとき、皆さんがこの半年で失ったものよりも皆さんが受け取ったもの、何より今日この日受け取ったものは遥かに大きいことを、私は声を大にしてお二人にお伝えしたいと思います。
2年前の2020年9月11日、半年遅れで開催された入学式の式辞の中で、私はコロナの終息まで、あと3年かかるでしょうと話しました。少し大袈裟かと心の中で思いながら、悪いことは少し大きめに見積るいつもの癖で3年と話したのです。とても残念なことに、その予想は的中しました。私たちは今でもマスクをせずに人と会うことはありませんし、家人以外のメンバーでの食事会に参加するたびに大いなる躊躇を覚えます。これからインフルエンザの流行期を迎え、けっして楽観できる状況にはありません。
この式辞の中で私は、画家にして詩人である星野富弘さんの話をしました。この方は群馬県の中学校の体育の先生でしたが、新任後まもなく事故で頸椎を損傷し、手足がまったく動かなくなってしまいました。彼は自分の運命を恨みましたが、やがてキリスト教の信仰に導かれ、そして、ひっそりと美しく咲く草花を通して神様の愛を知るようになりました。彼は口に筆をくわえて草花を描く練習を始め、その横に、短く感謝の詩を添えました。彼が描き出す美しい花々と素朴な詩は、以来、多くの人々の心をつかんで放しません。
この星野さんが、子どものころ渡良瀬川で溺れかけた時のことを書いています。――犬かきでピチャピチャやっているうち、いつの間にか川の真ん中まで流されてしまった。元の場所に戻ろうと必死に手足をバタつかせるが、友達の姿は遠ざかるばかり。川は恐ろしい速さで私を引き込み、助けを呼ぼうとして何杯も水を飲んだ。その時ふと「そうだ、何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか」との思いが頭の中にひらめいた。私はからだの向きを180度変え、今度は下流に向かって泳ぎはじめた。するとあんなに速かった流れも、私をのみこむ程高かった波も静まり、毎日眺めている渡良瀬川に戻ってしまったのである。やがて前方に見えてきた浅瀬に無事たどりつくことができた。――彼は、この渡良瀬川の経験を、車いす生活になった時の心の焦りと、静かに咲く花々に心の落ちつきを見つけた自分に結び付けて振り返るのです。
私たちはこの2年半の間、この星野少年と同じ経験をしてきました。コロナが始まったばかりのころ、私たちは、一日でも早く元の岸辺に戻ろうと流れに逆らって泳ぐ星野少年でした。その時の苦しみが、あるいは皆さんが少し長く大学生活を送らねばならなかったことに結びつくのかも知れません。いま私たちは流れの方向に向き直り、流れに乗って未来を見るようになりました。本学は感染者数の多い少ないに関わらず対面授業を行っていますし、私たちはマスクを付けたり外したりしながら何とか食事会を楽しんでいます。時には旅行にも出かけます。
コロナの流れは今も私たちの足元をとうとうと流れています。コロナがおさまったとしても、私たちはズームで全国会議に出席することでしょうし、台風が来ると知れば、休講通知ではなく遠隔授業通知を出すことでしょう。大切なことはコロナに慣れることではありません。そうではなく、コロナを通して再発見した、人と人とが出会うことの大切さを強く思うことです。他の学生さんよりも少し苦労して今日の卒業式をお迎えになったお二人は、こうした苦しみの末に手に入れた栄冠の価値を、誰よりもよくご存じです。どうか宮城学院女子大学で与えられた出会いの一つひとつをかけがえのない一生の宝として、長い人生を歩んでいただきたいと思います。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

本日はご卒業、誠におめでとうございます。

2022年9月28日
宮城学院女子大学
学長 末光眞希