【大学礼拝説教】真理はあなたたちを自由にする

2022年4月25日 大学礼拝
ヨハネによる福音書 8:31-32

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 
宮城学院女子大学に入って初めてキリスト教に触れた人も多いと思います。そしてお祈りすることについて抵抗を感じた方もいると思います。一体誰に祈るのか、という問題がまずあります。また、神を信じると自由がなくなる、人生が窮屈になる、と思う人もいることでしょう。神を信じ、神に祈るのは弱い人間がすること、と考える人もいるでしょう。ところが今日お読みした聖書には、「真理はあなたたちを自由にする」と書いてある。神を信じると自由になるというのです。一体これはどういう事でしょう。
 
国立国会図書館という、日本国内で発行されたすべての出版物が収められている図書館があります。この図書館の貸し出しカウンターの壁には「真理がわれらを自由にする」という言葉が銘板として掲げられています。今日の聖書の言葉「真理はあなたたちを自由にする」と、よく似ています。それもそのはず、この銘板の横にはギリシャ語の銘板があり、こちらには今日お読みしたヨハネによる福音書8章32節のギリシャ語がそのまま書かれているのです。日本の国立施設に聖書の言葉が掲げられているというのはとても面白いと思います。この言葉を選んだ羽仁五郎という歴史学者は、「この言葉が,将来ながくわが国立国会図書館の正面に銘記され,無知によって日本国民が奴隷とされた時代を永久に批判するであろうことを,ぼくは希望する」と述べています。国会図書館が設立されたのは戦火まだ覚めやらぬ昭和23年のことです。二度と愚かな戦争を起こさないために真実を知る場所を作ろう!そう誓って国会図書館が作られたことがよく分かります。羽仁さんの言葉の中に「奴隷」という言葉が出てきたことをちょっと覚えておいてください。
 
本年度の前期、私は4人の先生方とご一緒に、リベラルアーツ総合B(探求)という授業を3年生に開講しています。このリベラルアーツのリベラルとは自由、アーツとは技術・技法という意味なので、リベラルアーツとは「自由になる技法」という意味になります。一体何から自由になる技法なのかというと、それは「奴隷からの自由」なのです。古代ギリシャ・ローマでリベラルアーツの基となる学問が生まれた時、それは奴隷ではない自由人のための学問として生まれたのでした。
 
奴隷制度など、現代に生きる私たちには無関係だと考えるかも知れません。確かに私たちは今、制度としての奴隷制度などない社会に生きています。しかし先ほどの羽仁五郎さんの言葉によれば、第二次世界大戦中の日本国民は奴隷だったというのです。現在のロシア国民もプーチンの奴隷だと思います。何とその83%がプーチン大統領を支持しているというのですから、きっとそうだと思います。余談ですが、スラブ民族のスラブという言葉は奴隷Slaveという言葉と語源を共にしています。
 
では日本は大丈夫かと言えば、そうとも言えません。私たちは私たちで様々なものの奴隷になっています。たとえばSNS。皆さんの中に、LINEの着信があったらすぐに返事しなきゃと思っている人、いると思います。即レスですね。即レスしないと仲間はずれにされるのかも知れません。ところがLINEユーザーに実際アンケートを取ってみると、LINE送信したら必ず即レスで返ってくる人は「ちょっと重い!」って感じている人が3人に1人くらいいるのです。だったらみんなゆっくり返事すればいいと思うのですが、どうも多くの人が「即レス信仰」に縛られているような気がします。これもまた一つの奴隷です。
 
お金もまた私たちを奴隷にします。私の専門は半導体ですが、日本の半導体がまだ元気良かった1980年代、私の友人が主任技師としてスコットランドの半導体工場に派遣されました。休日も返上してあくせく働いておりますと、現地のスコットランド人に「なぜ日本人はそんなに働くんだい?」と聞かれました。「そりゃ、お金を貯めるためさ」と友人が答えますと、「なるほど。じゃ、お金を貯めて引退したら何をするんだい?」とまた聞かれたというのです。そして私の友人はその問いに答えることが出来ませんでした。「自分はお金を貯めて一体何がしたいんだろう?」彼が答えられなかったのはお金を貯めることが自己目的化していたからでした。バブル時代ならではの話かも知れませんが、これも一つの奴隷です。
 
このように私たちは、自分では気づかないけれど、色んなものに縛られています。その理由の一つは、実は私たちは縛られることが好きだからです。とても逆説的ですが、縛られた方が自由だと思うことがあります。制服の方が私服より自由だと思ったことはありませんか。もしこの中に「学長は変なことを言う!私服の方が制服より自由に決まってるじゃない!」と思う人がいたら、その人はとても健全です。しかし中には、私は毎朝、今日何を着て行ったらいいか迷ってしまう、そういう自分はとても不自由だと思う、っていう人が居るかも知れません。自分のことを自分で決められない人にとって、他人(ひと)に決めてもらうと言うのはとても楽ですし、自由なことです。
 
結局のところ、私たちは何物にも縛られないで生きることは不可能です。私たちは究極的には誕生と死のはざまに縛られています。どうせ縛られるのであれば、私たちに命をくださり、私たちの生涯に終わりを与えられる方に縛られてみないか?これが私のメッセージです。今日の聖書は、主イエス・キリストの言葉にとどまり、そのことによって真理を知り、自由になりましょう、と私たちを誘(いざな)っています。
 
私は自転車が大好きです。朝、校門近くで自転車に乗ってリュック背負ってるおじさんがいたら、それは私です。「学長、無理しないで!」とか、ぜひ声がけください。皆さんは初めて自転車に乗れるようになった時のことを覚えていますか?私は長男に自転車の乗り方を教えた時のことを時々思い出します。息子は振り向きながら言うのです。「いい、お父さん、ちゃんと後ろ持っててね!でないと僕、倒れちゃうんだからね!」「わかったよ」。子どもは安心して漕ぎ出します。「お父さん、後ろ持ってる?」「うん、持ってるよ」――こう声をかけ続けながら父はそっと手を離し、子どもは一人で自転車を漕ぎ出します。こうして子どもは自転車を覚えるのです。私たちと神様の関係も同じです。神様が後ろでしっかりと私たちを支えてくださる。そのことを知るからこそ、私たちは安心して最初のペダルを踏み込むことができるのです。けっして私たちがペダルを踏みこむのが最初ではないのです。
 
「祈ってばかりいてもしょうがない、行動しなくては」という人がいます。私も若い頃、そう思っていました。けれどそれは間違っていたと今思います。私たちが行動できるのは、祈りは聞かれる、との確信があるからです。今、キリスト教会はイースター(復活祭)の時を過ごしています。聖書が伝える復活の主はけっして高みに座って私たちが走る様子を眺めておられる神ではありません。私たちと共に走り、後ろで私たちを支えて下さる神なのです。主がご一緒に走ってくださると知るからこそ、私たちはペダルを踏み続けることが出来ます。つらいことが多い毎日ですが、そのことを信じてペダルを踏み続けたいと思います。