2021年10月11日 大学礼拝
マルコによる福音書5:1-20
一行は,湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに,汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており,もはやだれも,鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが,鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい,だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり,石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると,走り寄ってひれ伏し,大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス,かまわないでくれ。後生だから,苦しめないでほしい。」イエスが,「汚れた霊,この人から出て行け」と言われたからである。そこで,イエスが,「名は何というのか」とお尋ねになると,「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして,自分たちをこの地方から追い出さないようにと,イエスにしきりに願った。
ところで,その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに,「豚の中に送り込み,乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので,汚れた霊どもは出て,豚の中に入った。すると,二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み,湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し,町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると,レギオンに取り付かれていた人が服を着,正気になって座っているのを見て,恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは,悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで,人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出した。イエスが舟に乗られると,悪霊に取り付かれていた人が,一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで,こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に,主があなたを憐れみ,あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り,イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
昨年度から、私たちは一つの感染症との戦いに明け暮れています。現代に生きる私たちは、この病にCovid-19という名前を付けて他の病気と区別し、この病が太陽のコロナのような形をしたウィルスによって引き起こされることを知っています。しかし今から2000年前、イエス・キリストがこの世の生を生きられた時代、病は「悪霊」がその人に取りつくことによって引き起こされると考えられていました。今日はイエスさまが「悪霊を追い出して」病気を癒されたと聖書に伝えられる出来事を共に味わい、このまったく時代遅れな病気理解に基づいて記述される一つの出来事が今日の私たちに伝えるメッセージについて考えたいと思います。
イスラエル北部にガリラヤ湖という湖があります。ゲラサ人の地方とは、このガリラヤ湖の東岸の地方です。この日、イエスさまと弟子たちは、湖の西岸の町から小舟に乗って到着しました。前の夜は突風吹き抜ける嵐で、彼らはその嵐と夜通し戦いながら、ようやくこの町に着いたのでした。主イエスが岸に上がるとすぐに、「汚れた霊に取りつかれた」一人の男がやってきました。この人は墓場に住んでいました。当時のお墓というのは山の斜面の岩場をくり抜いて造った洞窟でしたから、その気になれば、人がお墓に住むことができたのです。しかしもちろん彼が好き好んでお墓に住んでいた訳ではありません。この人は時々大声を出してあばれることがありました。家族や友人たちは彼の狂暴性に耐えきれず、彼を墓場に隔離し、足かせと鎖で縛りつけたのでした。しかし何度彼を縛っても、そのたびに彼は鎖を引きちぎり、足かせを砕いてしまいました。ものすごい力でした。彼は時々奇妙な声をあげ,石で自分を打ちたたいて日々過ごしていました。
その彼が、イエスさまが舟から陸に上がると見るや、墓場から出てきたのです。彼はイエスさまの所へ走り寄ってひれ伏しました。主イエスはこの男の中に悪霊をお見つけになり、「汚れた霊、この人から出て行け!」と言いました。言われた悪霊は叫びます――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 「そんな風に言うんだったらわざわざお墓から出てくるな!」と突っ込みたくなります。しかし悪霊は主イエスにそう叫ばずにはおれなかったのです。明らかに悪霊はイエスさまに惹き付けられています。「いと高き神の子イエス」と呼ぶ悪霊は、イエスさまのことを正しく理解していました。そして悪霊は、主イエスが来られることで自分の居場所がなくなることを正しく理解していたのです。
「名は何というのか」と、イエスさまは悪霊に尋ねます。古代世界において本名はひたすら隠すべきものでした。相手に自分の本名を知られることは、相手に支配されることを意味していました。「ゲド戦記」というファンタジーを知っていますか。その第一巻「影との闘い」という物語は、まさにそのような、本名を隠す世界観に生きる魔法使いの少年ゲドの成長物語でした。今、私たちは毎日マスクをしており、ここ二年以内に知り合った人たちの素顔を私たちはほとんど知りません。しかし食堂などでふとその素顔を垣間見るとき、何かその人の秘密を知ってしまったような不思議な感覚になります。つくづく、私たちは異常な世界にいま生きていると思います。
そんなマスクに隠された素顔にも似て、古代社会で本名は、極力隠すべきものでした。それなのに、この悪霊、主イエスに聞かれるとじつにあっさりと名前を答えてしまいます。「名はレギオン。大勢だから。」レギオンとはローマ軍団の一単位のことです。1レギオンは5-6000人の部隊だったようです。大変な数です。一つの悪霊と思っていたらレギオンでした。数千の汚れた霊たちの集りでした。彼らは主イエスに出会うまでは本名を隠し、まるで一つの人格のように振舞っていましたが、今や主イエスの前に、自分たちが5-6000の汚れた霊たちの集団であることを白状しました。聖書はここから「汚れた霊ども」と複数形で悪霊のことを表記します。じつに正確です。
男から追い出されることが避けられないと知った汚れた霊たちは、どうか自分たちを豚の中に乗り移らせてくれと願います。近くではたくさんの豚が放牧されていました。汚れた霊たちは、宿主がないと生きていけないようでした。主イエスは彼らの引っ越しを許します。汚れた霊たちは男の体を出て豚の中に入り込み、その結果、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、次々とおぼれ死にました。何とも壮絶な話です。
現代に生きる私たちは<悪霊>というものをどう考えたらよいのでしょうか?聖書は、男の病気は悪霊の仕業だと説明します。そして主イエスがこの男から悪霊を追い出すと、この男は正気に戻り、ちゃんと服を着て,人々の中に静かに座ります。想像するだけで笑いがこみ上げてくる愉快な光景です。
病気が悪霊の仕業だなんて、何と前近代的な考えでしょうか。現代に生きる私たちは病気の原因を科学的に追及します。病原菌、ウィルス、心的ストレス、さまざまな要因を探します。悪霊なんて持ち出しません。しかし私たちはそうした科学的探究とはまったく別に、「自己責任」という名前の原因追及の回路を持っていることを忘れてはなりません。今の日本、新型コロナに感染したら、その人は必ず謝らなくてはなりません。「注意を怠っていました、ごめんなさい」、「感染したのは私の責任です、ごめんなさい」――こう言わなくてはなりません。一番苦しいはずの感染者とその家族たちは世間に対して謝ることを求められ、差別され、こうして彼らは病気とともに世間とも戦うという二重の戦いを強いられることになります。医療従事者とその家族も同じです。今の私たちは、「自己責任病」という感染症にかかっているのではないかと思うことがあります。うまく行ったら自分の努力のせい。うまく行かなかったら自分の努力不足のせい。自分、自分、自分。もちろん自分が責任を負わなくてはならないことはたくさんありますし、それを知ることは大人になるということの大切な意味です。しかし、コロナ感染のように、自分に責任のないことまで自分で背負いこむのは間違っています。感染者を、自己責任を持ち出して非難するのは間違っています。そう考えると、病にかかったのはその人に「悪霊」が入ったから、という古代社会の考え方は、一見とても時代遅れに見えますが、病気の原因と患者本人を峻別するという意味で、何か一服の清々しさがあります。もちろん、古代は古代で、病人に対するたいへんつらい差別があったことを知っています。しかし少なくとも私たちに、古代人を笑う資格はないと思うのです。
宿主がいないと生きていけない、という点でも悪霊とウィルスはよく似ています。ウィルスは自分自身では増殖できません。彼らが持っているのは遺伝子という設計図だけで、自分たちを増やす機能を持たないからです。ウィルスたちは私たちの体内に入り込むと、自分たちの遺伝子を私たちの身体に送り込みます。私たちの身体はウィルスから送りこまれる遺伝子情報を読み取り、彼らのために一生懸命ウィルスを作るのです。新型コロナウィルスは、そのような自分たちの製造工場を求めて、コウモリからセンザンコウへ、センザンコウから人へと乗り移りながらその数を増やしてきました。それは豚に乗り移って必死に生き延びようとする<汚れた霊たち>と何ら変わるところがありません。現代からみるとまるで荒唐無稽な<汚れた霊>や<悪霊>という観念も、病に対する古代人なりのすぐれた理解の仕方であったと言えると思います。
しかし、私たちが今日の聖書を本当に自分のこととして読もうとするならば、話をここで終えてはいけません。私たちは、この悪霊の問題を、やはり自分の罪の問題として読まない訳にはいきません。悪霊はレギオンでした。5000とも6000とも言われるこのおびただしい数は、私たちと世間との間に結ばれる関係性の数といってよいのかも知れません。私たちが一人の神と繋がっていない時、私たちの心は5-6000のしがらみに縛られていると考えてみたいと思います。それがレギオンです。だからこそレギオンは、宿主たる私が彼らを追い出し、ただ一人の神と結びつくことを心から恐れています。だからこそ彼らは、滑稽にも主イエスが到着するや否やわざわざ墓場から出てきて「私にかまわないでくれ」とひれ伏して頼むのです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」昔はそういう若者がたくさん教会にいました。かつての私もそうでした。毎週、教会の礼拝に来るのですが、イエスさまに「私にかまわないでくれ!」と言い続けるのです。イエスというお方が気になって仕方ない。しかし「私にかまわないでくれ!」と叫ぶのです。私は、この物語を、他人事(ひとごと)として読むことはできません。
墓場に棲んでいたこの一人の男の救いのために、二千匹の豚の命が必要でした。その数を知って私たちは驚きます。犠牲の大きさは、その罪の大きさを教えます。私たちの救いのために、神の御子のお命が必要でした。それは何と大きな犠牲でしょうか。そして何と大きな私たちの罪でしょうか。「イエスさま,あなたは私と何の関わりがあるのです?」と私たちは問います。すると主は答えられます。「大有りだ。私はあなたのために十字架にかかったのだよ。」いくら私たちが係わりを断ち切ろうとしても、主イエスの方から私たちに係わってくださる。その恵みに気付いて歩み続けたいと思います。