【大学礼拝説教】素敵な「敵」――実り豊かな不一致をめざして

2021年7月9日 大学礼拝
マタイによる福音書5:43-48

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 
iPhoneを持っている方はご存知と思いますが、iPhoneにはSIRIというAIが組み込まれています。結構な会話ができるようです。ある人が「愛とは何ですか」とSiriに尋ねたら、「愛とは、理解の別名です」と答えたそうです。なかなかの回答だと思います。今日は、愛するということ、とくに敵を愛することについて考えてみたいと思います。
 
イエス様は、「あなたがたは『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と人々に語られました。何に命じられているかと言えば、ユダヤ人たちが守るべく定められた宗教的法律である律法です。たしかに律法には「隣人を愛せよ」と書いてありました。しかし後半の「敵を憎め」という言葉は、じつは律法に出て来ないのです。ここはイエス様が付け加えた言葉です。したがってイエス様の気持ちを汲んでこの言葉を今風に訳せば、「君たちは『友だちと仲良くしなくちゃ』とよく言うけれど、その言葉はいつも『誰かを仲間外れにしよ!』って言葉とセットだよね」となろうかと思います。イエス様、とても鋭いです。たしかに誰かを仲間外れにすることは仲間の結束を高めるとても有効な方法です。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。そんなことではいけない!嫌いな人も好きにならなくちゃいけない!そうイエス様はおっしゃいました。
 
たしかにそうだと思います。でも、嫌いな人を好きになるのは簡単なことではありません。どうしたらそんなことができるのでしょうか。今日は敵を愛する、つまり嫌いな人を好きになるために三つのことをお話したいと思います。その1は、敵だと思ってるその人ははたして本当に敵だろうか、ということです。敵だと思っていた相手が、じつは自分にとって大切な人である場合があります。今ちょうどウィンブルドンの大会をやっていますが、たとえば皆さんがテニスの試合をするとしましょう。試合の相手は当然倒すべき敵です。しかし相手がいないとテニスができないことに気付くとき、私たちは、この対戦相手が実は大切なパートナーでもあることに気付くのです。敵を愛する第一のヒント、それは「敵」だと思っていた人が自分にとって大切な存在だったことに気付くことです。
 
しかし、現実はそんなに甘くない!という人もいるでしょう。おっしゃるとおりです。敵を愛するヒントその2として池田晶子さんという哲学者の言葉をお送りしたいと思います。彼女はファッション雑誌「JJ」―私はよく知らない雑誌ですが―その読者モデルをしながら哲学を勉強して哲学者になったというすごい人です。彼女は「14歳からの哲学」というベストセラーの中で次のように書いています。

君たちの歳にもなればきっと悩みはいっぱいのはずだ。そもそもこの「悩む」っていうのは、どういうことなんだろう。悩むっていうのは、どうすればいいのかわからないってことです。もし本当にそれがわからないことなのだったら、君は、悩むのではなくて、考えるべきなんじゃないだろうか。考えると言うのは、それがどういうことなのかを考えるということであって、それをどうすればいいのかを悩むってことじゃない。

悩むことはない、考えればいいんだ、と池田さんは言います。悩むとは、自分の中で考えがぐるぐる回って答えが出せないことです。たとえば「あの人はなぜあんなことを私に言ったんだろう?私はどうすればよかったんだろ?」って頭の中がぐるぐる回っているとします。そんなこと、いくら悩んだって答えは出ないわけです。そんな風に悩むのは止めにして、その代わり、「あの人があんなことを言う理由がもしあるとしたら、どんなことが考えられるだろう?」と考えてみたら?と池田さんは提案します。池田晶子さんは「考える」ということは、自分の中に閉じこもっているのではなく、思いを限りなく他者に開いていくことだと言います。思いを他者に開いて「考えること」、これが「敵を愛する」ことへの第2のヒントです。まずは敵を理解しようと努めてみよう、と言うことです。こう考えると、iPhoneのSiriが答えたという「愛とは、理解の別名です」という回答は、結構、好い線行っていると思います。おそらくApple社のAIは、哲学書をかなり読み込んでいるものと思います。
 
しかし敵を愛するもっと大切な第三のヒントがあります。それは自分が誰かに愛されていることを深く知ることです。これは今年の宮城学院中学校の入学式で嶋田学院長が話されたことですが、童謡「ぞうさん」の歌がとてもよい参考になります。「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね」、あの歌です。この詩を書いたまどみちおさんは、この詩を、子象が、その長い鼻をからかわれている悪口の歌として書きました。実際、元の詩は今の「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね」ではなく、「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いね」だったと言います。しかしこのように悪口を言われても、子象は「そうよ、母さんも長いのよ」と答えることで、この悪口を軽々と乗り超えます。そして「ゾウさん、誰が好きなの?」と聞かれた子象は「あのね、母さんが好きなのよ」と答えることによって、自分が母親に愛され、そして自分が母親を愛していることを相手に伝え、そして目の前の相手との敵対関係を見事に解消していくのです。
 
しかし、もし、そのように自分を愛してくれる人がいなかったらどうすればよいのでしょうか?iPhoneのSiriに「愛とは何ですか?」と尋ねた人は、翌日Siriにまた同じ質問をしたそうです。するとSiriは「今日はその話はやめにしましょう」と返してきたそうです。愛そのものを知らない、あるいは他者に愛されたことがないSiriは、もう愛の話はやめにしたかったのでしょう。
 
ペトロというイエス様の一番弟子がいました。生前のイエス様とお別れとなる最後の晩餐の席上、ペトロは主イエスに「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と語り、主イエスに対する強い愛を誓いました。これに対して主イエスは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と預言されました。そして主イエスのその言葉は正しかったのです。その夜、主イエスが逮捕され、大祭司の館で裁判にかけられている時、ペトロは館の中庭でそっと様子を見守っていました。しかし館の下女は彼を見ると、「あんた、あの男と一緒にいたよね」と言いました。ペトロは「俺はあんな男は知らね」と言います。しばらくするとその場にいた別の男が「いや、あんたはあの連中の仲間だろ?」と再び言います。ペトロは「いんや、ちがう」と打ち消します。一時間ほどたつと、また別の人が「確かにこの人も一緒だった。言葉がなまってるからわかる」と言います。しかしペトロは「あんだの言うごとは分がらね」と言いはります。そしてその言葉がまだ終わらないうちに、夜明けを告げる鶏が鳴きました。そしてその時、遠くに見える館の中の主イエスは、振り向いてペトロを見つめます。ペトロはいたたまれず屋敷を飛び出し、激しく泣きました。ペトロは私たちです。私たちは、本当は敵を愛するどころか、仲間でさえ愛し抜けない人間なのです。
 
仲間であれ、敵であれ、私たちは愛する力を本当は何も持っていません。私たちはゾウさんの歌の子象のように、誰かからもらった愛を映し出すことしかできないのです。そして聖書は、そんな何も愛を持たない私たちのために、神ご自身が私たちを愛してくださったと告げます。神は御子イエス・キリストを本当に一人の人間として私たちの世界にお送りくださり、しかもその御子を十字架におかけになることによって、私たちへの愛を示してくださった。私はこの春、東北大学名誉教授の哲学者・野家啓一先生と対談する機会を得ましたが、その時、先生から「実り豊かな不一致」(fruitful disagreement)という、とても素敵な言葉を戴きました。この「実り豊かな不一致」は、究極的には、キリストがその十字架においてお示しくださった神の愛によって可能となる――と聖書は告げます。人は私と違うからこそ、私の大切なパートナーだと思える「実り豊かな不一致」を目指し、私たちはこの一年間、歩んで行きたいと思います。そのとき「敵」はきっと「素敵」な仲間になることでしょう。「素敵」という言葉には「敵」という字が入っているのですから。