【大学礼拝説教】わたしについて来なさい

2021.05.14

2021年5月14日 大学礼拝
マルコによる福音書1:16-20、ヨハネによる福音書15:16

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ1:16-20)
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)

 
先日、新聞を読んでいたら、宇崎竜童というJポップ大御所歌手の記事が出ていました。彼は大学1年の春、同じ新入生の中に運命の美人を見つけてひとめぼれしました。自分が一足先に入部していた軽音楽部に彼女を強引に勧誘し、一年後、宇崎さんは彼女に告白します。その時の言葉が「あなたは俺の奥さんになることになっています」だったそうです。今日の聖書を読んで、彼のこの告白を思い出しました。イエス様は弟子を取る時、まるで、「あなたはわたしの弟子になることになっています」と言わんばかりの強引さで声がけしています。宇崎さんの場合、その強引な告白に対する返事は「あら、そうかしら」だったようですが、しかし結局二人は結婚し、こうして作詞家阿木燿子・作曲家宇崎竜童の名コンビが誕生しました。二人は山口百恵の「横須賀ストーリー」を始め数々の名曲を生み出すことになります。
 
聖書に戻りましょう。イエス様のこのような弟子の選び方は前代未聞のものでした。その頃のイスラエル、今から2000年前の話ですが、その頃、「あの先生の下で学びたい!」と志を立てた若者たちは、まずその先生のところに出向き、「先生の弟子にして下さい!」と志願しました。そして先生がこれを許可すると、師弟関係が結ばれたのです。今の学校も同じです。皆さんが宮城学院女子大学に入学する時には、入学願書を出し、試験を受け、そして合格してはじめて入学することができたのでした。これは日本中、合格するのが難しいか簡単かという違いはありますが、どこの大学でも同じです。最初に行動を起こすのは志願者の方であるという点は、2000年前のイスラエルと何ら変わりません。
 
しかしイエス様は違っていました。イエス様が弟子を選んだのです。その声がけの言葉は「わたしについて来なさい」でした。この言葉、じつは今日とても大切な言葉です。人が大勢集まるところ、この大学もそうですが、そういう所では消防隊というものを組織し、避難誘導係を置かなくてはならないのですが、いざ火事や地震となった時に、避難誘導係が叫ぶべき言葉がこの「わたしについて来てください!」なのです。たとえば地下街で火事になったとき、「右手に非常口があります」などと後ろから叫んでもだめです。「わたしについて来てください!」と言いながらその人自身が非常口の方に動き出してしまうことが大切なのです。誘導係が動くと人の流れが出来、一度人の流れができると、後の人は理由もわからずについて来ます。しかもこの方法だと、避難経路がどんなに複雑に入り組んでいても、全員が正しい経路で避難できるのです。今年の1月6日、アメリカ合衆国大統領選挙の選挙不正を訴えるドナルド・トランプの支持者らがアメリカ合衆国議会議事堂を襲撃するという事件がありました。この事件で、ユージーン・グッドマンという黒人警官が取った行動が賞賛されています。彼は上院議場に侵入しようとした暴徒たちを制止するふりをしながら、少しずつ議場とは反対方向に後ずさりし、彼についてきた暴徒たちを自然と議場から遠ざけたのです。暴徒たちがこれは違うぞと気付いて議場に向かった時、議場のドアはそのわずか1分前に施錠されたばかりでした。ユージーン・グッドマンはその機転によって、この貴重な1分間を作り出し、暴徒たちがより大きな罪を犯さすことを未然に防ぎました。同じように、私たちもまた、主イエスについていくことによって、これ以上罪を犯さないよう守られるのです。
 
私は今からちょうど50年前の1971年3月に京都の高校を卒業し、そして東北大学の工学部に入学するため、たった一人、仙台にやってきました。この街に誰一人知っている人はいませんでした。当然、まさかその半世紀後に宮城学院女子大学の学長になろうとは思ってもいませんでした。
 
大学に入学し、父親の勧めもあり、私は今も毎日曜通っている片平の仙台東一番丁教会に出席するようになりました。しかし神さまを信じることはせず、ずっと洗礼は受けませんでした。ある年、森有正という有名な哲学者でありキリスト者である先生がこの宮城学院の招きによって仙台に来ることになりました。そして宮城学院での講演の翌日、仙台東一番丁教会の日曜礼拝で説教されることになったのです。哲学者ですからどんな難しい話をなさるのだろうと身構えておりますと「神様は田舎の親父みたいなもんだ」という話をなさったのです。大学に入るために田舎から都会に出てきた。誰も知らない人ばかりだったのに、行く先々で素晴らしい出会いに恵まれた。これはきっと田舎の親父が私の知らないところで色んな人に手紙を書き、「今度、子どもがあなたの街に住むことになったので一つよろしく!」って、そう言ってくれてるに違いないと思う。神様はそういう田舎の親父みたいなお方だ――そうおっしゃったのです。私が仙台に出てきて経験していることとそっくり同じだったので、すとんと腑に落ちました。ああ神様っておられるんだな、と思いました。大学4年生の春、私は洗礼を受けました。
 
「わたしについて来なさい」と言われたとき、シモンとアンデレの兄弟、そしてヤコブとヨハネの兄弟たちは、自分たちがなぜイエスさまに選ばれたか、よく分かりませんでした。彼らが特別に信仰深かったからではありません。特別に頭が良かったからではありません。特別に話が上手で、信者を増やす才能があったからでもありません。シモンとアンデレは魚を取っていただけですし、ヤコブとヨハネは網の手入れをしていただけなのです。イエス様が弟子たちをお選びになった、神の御子が弟子たちをお選びになった、それだけが、彼らが選ばれた理由なのです。
 
なぜ彼らが弟子に選ばれたか、なぜ私が仙台に来たのか、なぜ皆さんが宮城学院女子大学に入学することになったのか、それは私たち人間には分からないことです。この分からないことを分からないままにしておくことがとても大切です。今日お読みしたもう一か所の聖書、ヨハネによる福音書15章16節には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と書いてあります。私たちは一人一人選ばれて「私について来なさい」と呼びかけられ、その結果として、今この聖書のみ言葉を聞いています。イエスさまについて行くことの責任は、呼びかけられたイエス様ご自身が取って下さいます。私たちは悩む必要がありません。安心してついて行きたいと思います。

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