キになる言の葉 ミになる話
風のなかにことばを探して ―その1―
志 村 文 隆(日本文学科 教授)
動植物学者・人類学者として有名なライアル・ワトソンは「風の写真というものは存在しない」と言う。また「風はとらえどころがなく、変わり身が速く、逃げるのが上手く、定義しがたい——だが無視することすらできないのだ」と書いている。(『風の博物誌』木幡和枝訳、河出書房新社、1985)
確かに風とは空気が動いているだけのものである。身体感覚として肌にははっきりと感じられるものの、風そのものは透明で目に見えない。しかし、すでにいろいろな姿をして眼前に立ち現れてはいる。ギリシア神話には、エウロスやピュロスなどのように、鳥の羽を付けた風の神たちがいるし、京都の三十三間堂にある風神像もよく知られている。各地にはつむじ風に乗ってやってくる妖怪カマイタチもいて、宮城や福島などでは、これがつむじ風自体の呼び名の方言にもなっている。目鼻立ちははっきりしないが、気象レーダーから送られてくる風のデータを可視化した画像だってある。
目に見えない風をことばで表すとは、いったいどういうことなのだろうか。吹き方は千差万別のように感じられて「とらえどころがなく」、風のどの面について、どのような表現を用意してことばにするのか、もし自分が名前を付ける立場にあったらならば途方に暮れてしまいそうである。
風が吹いているか否かを声で誰かに伝えてみるか。次に、何度もくりかえされる風の吹き方があるなら、とりあえず注目するか。風の現象の特徴を覚えておいて何か名前をつければいいのだろうか。しかし、名づけを行うのは何のために?
風の呼び名の分類は、気象学、生活・民俗、文学、宗教、芸術などの分野において、様々に行われている。関口武が著した『風の事典』(原書房、1985)では、日本語の風の名前は2145語にのぼるとされている。これほどまでにたくさんのことばが記録されていながらも、実際に私たちはふだんどれだけのことばを使って風を言い表しているだろうか。
風は毎日すべての人に「公平に」吹いてきている。しかし、その名前も知らぬまま、せいぜいカゼ(風)やボーフー(暴風)などのごく限られた数のことばだけを持ち出しながら、やり過ごしている。いや、なかにはスルーをせずに、東北地方では「ヤマセ続いでるぞ、田んぼ大丈夫が」と言う人がいる。仙台市の若林区では「イナサだぞ、魚、獲れっつぉ」と話す漁師にも会った。
同じ天候に関することばなら、東北には雪の例がある。東北地方では、カタユキ〈氷結した雪〉・ユキシロミズ〈雪解け水〉・ザエ〈水に溶けた雪、川などを流れる氷〉・ホダ〈雪の降り積もった所〉など、地域によって雪に関するたくさんの種類の方言が使われてきた。しかし、このようなことばを知らなくても特に不便なく生活できる人は大勢いる。
それでも、道路のユキカキ(雪掻き)、屋根のユキオロシ(雪下ろし)など、南国の人ならば使わないことばはたくさんある。暮らしている場所には雪が降るという気候がまずあって、さらに生活上どうしても雪に関する特定の事柄をことばにしておく必要に迫られる。雪に無関心ではいられない状況が地域にことばを呼びよせてくる。
劇場などで幕が上がった時に、ステージから客席に向かってひんやりとした風が流れてくることがある。装置の運搬などのために、幕で仕切られたステージ側だけに外気が入り込んで温度が低くなっている。この空気が温かい客席に降りてくる現象で、ブタイカゼ(舞台風)と言う。冬などに、これで風邪をひく人もいると聞く。果たして、この舞台風ということばを使うのはどんな人たちなのだろう。寒い思いをして、それを人に教えた観客のひとりだったか。あるいは施設の空調を管理する関係者だろうか。いずれにしても、ある時に誰かがこのことばを使う必要に迫られたに違いない。
風の名前を日本語に探すと、いろいろな呼び名が集まってくる。今日から3回にわたって、海と風を巡る小さな旅に出てみよう。日々、風と関わりながらことばを話す人に会うために。そして問いかけてみよう。風のことばを使うのは何のためにと。
「風は人間を動かす」(ライアル・ワトソン)。
(その2へ続く)
(写真:筆者撮影)