【備忘録 思索の扉】第八回「『自分で学ぶ』こと」

去年頃から,AIの話題が世間で多く見られるようになりました。
この私の思索でも,「囲碁」を題材に,何回か触れたことがあります。
そして,今回もその「囲碁」が題材になるわけですが,
というのも,先月あたりから,かのGoogleが新しいバージョンのAIを開発したらしく,
「AlphaGo Zero」という名のそれは,非常に興味深いものだったからです。
何が興味深いかというと,この「AlphaGo Zero」は,読んで名のごとく,
「ルールだけ覚えて,ゼロから自力で学習し,強くなった」ようなのです。
しかも,コンピューターの性能が上がったせいもあるでしょうが,
学習を始めてから3日間で,人間のトッププロのレベルを超えたようですから,驚異的です。

もちろん,AIがより高いレベルに到達したことも重要ですが,
ここで私が問題にしたいのは,やはりその方法です。
これまでは,「うまい人の方法をまねる」ことで,AIは強くなりました。
しかし,いざ人間を超えるレベルに達してからというもの,
今度は逆に,「人間に頼らないがゆえに人間の限界に縛られることがなく」なったのです。
これは皮肉と言えば皮肉ですが,人間vs AIという構図を超えて,
より根本的に「学び」と「教育」という問題にもつながるような気がします。

ここ数年来,私は「自分の持っている知識や考えを教える」ことを減らして,
「学生自身に疑問を持たせ,気づかせる」ことを目標に,授業を組んできました。
大人数のクラスでは,学生に対して「共通の問い」を発し,考えさせるのですが,
特に少人数でじっくりと話し合えるタイプの授業では,
できるだけ,「このテーマでは,どんな問いが考えられるか?」というところから始めます。
先生が教える「大事な知識」や「正解」を覚えることが勉強だと思っている学生にとっては,
問いに対して答えることも,ましてや問いを思いつくことも,結構大変なようです。
けれども,自分で考えれば考えるほど,さらには自分で疑問を感じれば感じるほど,
そこで見つけ出した問いや答えの価値がわかるし,だからこそ自分の身につくものだと思います。
これは,かつて話した「頑張る記憶」と「自然な記憶」の違い,とも言えそうです。
疑問も思考もないところに,私が何を植えつけようにも,なかなかうまくいかないものです。

ところで,「囲碁」が,過程は複雑でも目的自体ははっきりしているのと同じように,
私が求める問いも,わりと単純で「正解のありそうな」ものになる傾向があるようです。
そうでないと,「より良い答えを見つける」という姿勢が生まれにくいからです。
でも,だからこそ,そんな中では私の立ち位置が微妙になってきます。
つまり,私が持っている「正解らしきもの」を学生が知りたがったり,私が教えたくなったりしたとき,
それをどの程度どういう風に示せば良いのか,ということです。
「AlphaGo Zero」は,「教えるな」とささやいているようですが,果たしてどうなのでしょうか……。

小羽田誠治 中国語・東洋史学)