【備忘録 思索の扉】第七回「歴史研究の作業場 その四」

五稜郭の戦い予期しない出会い

戊辰戦争の続きです。盛岡藩(南部藩)と秋田藩の戦争を調べているうち、狩野亨吉、内藤湖南、そして田中正造という三人の名前と出会うことになりました。
秋田の大館に生まれた狩野亨吉は、安藤昌益の「発見」者として、また古書の蒐集家・鑑定家などとしても有名な人です。亨吉は知らないことでしたが、昌益も後に大館近くの二井田村(現大館市)の出身ということがわかります。亨吉の蒐書は「狩野文庫」として東北大学の図書館に納本され、貴重書となっているのはいうまでもありません。。
狩野亨吉生誕150周年記念展が、2015年の10月から12月にかけて、東京大学駒場博物館で開催されるというので、安藤昌益がらみで見学に行きました。亨吉が教養学部の前身、第一高等学校の校長をしていた関係で、その残した文書が駒場図書館に所蔵されているのでした。ちょうど、拙著『五稜郭の戦い』(吉川弘文館)が出たばかりでしたので、展示の最初にあった「狩野亨吉回顧メモ」が目を引きました。リーフレットの翻刻によれば、まだ四歳のことでしたが、「家宅隣近の模様を記臆せり」とし、戊辰の乱で家族が一度離散、母に背負われて津軽に逃れ、その後能代の外戚の家に住むことになったという体験を記しています。
亨吉の父は狩野深蔵(良知)といい、大館城を預かる佐竹大和の家老職にありました。盛岡藩の攻撃を受け、城や町は焼き尽くされてしまいました。深蔵の弟徳蔵(旭峯)も戊辰戦争で戦い、後に『戊辰出羽戦記』という記録を残しています。
狩野亨吉が京都帝国大学文科大学長のとき抜擢したのが、東洋史学の内藤湖南(虎次郎)でした。湖南は盛岡藩の鹿角郡毛馬内に慶応2年(1866)に生まれています。父は内藤調一(十湾)といい、桜庭氏の家士で主君ともども戊辰戦争の秋田攻めに加わっています。その従軍記録は『出陣日記』と題され翻刻されています(『鹿角市史資料編』第1集)。戊辰戦記の類は少なくないのですが、民家に火を懸ける味方の様子などまで記した出色の戦争記録となっています。
湖南も何か戊辰戦争の体験記を書いているのか気になって、本学の図書館にも入っている『内藤湖南全集』をめくってみました。第二巻の「追想雑録」に「我が少年時代の回顧」という文章があって、父が従軍して秋田藩の隣郡十二所の町を襲撃して焼き払ったと記しています。亨吉より一つ下になりますが、「自分は毛馬内の鎮守の社の処で見た。焼ける火を見たといふ印象は今は記憶して居らないが、人の話によって聞いて居る」とし、少し長じて周辺の人たちから聞いたことが、戦争認識の中心となっているのでしょう。
盛岡藩は降伏して領地を減らされ、鹿角の地は新政府の支配する江刺県となります。鹿角の士族は「百姓とも士ともどっちもつかぬ身分に落ちぶれた」のでした。調一はこの江刺県の花輪寸陰館という郷学校の学職となり、暮しを支えました。
もう一人の田中正造は、下野の小中村(現佐野市)の生まれで、もちろん公害問題の原点というべき足尾鉱毒事件で知られる人ですが、ここにどうして登場してくるのでしょうか。秋田藩と盛岡藩の戦争に参加したわけではありません。詳しいことは正造の自伝(『田中正造全集』第一巻)を見ていただきたいと思いますが、明治3年(1970)26歳の時、江刺県に仕え、飛び地の鹿角への出張を命じられ、花輪分局に赴任してきたのでした。そこで、正造と調一は出会い、正造が寸陰館で学んだことを示す「入学簿」が残っています(『花輪町誌編纂資料』第一号)。正造も調一について「寸陰舘学派の友人内藤某」と書いていますので、親しく交わった関係が窺えます。
ところが正造は在任中に上司が殺害されるという事件が起き、その嫌疑をかけられて捕まり、江刺の本庁に送られ投獄されてしまいます。3年と少し、無実の獄中生活を強いられたのち故郷に帰りました。それぞれの戊辰戦争・維新の体験がその後の人生にどのように影響を与えているのか、近代人への興味が湧いてきます。
知っている人はむろん知っていることでしょうが、戊辰戦争を介して亨吉、湖南・調一、正造がつながってみえてきたのは、新鮮な驚きでした。歴史というのはいろいろ調べていると、思わぬ出会いや発見があって、やめられなくなる学問なのです。
最後に正造のことでもう一つ書いておきたいことがあります。正造の自伝や明治3年の日記(全集第9巻)をみて、明治2年の凶作で疲弊する鹿角・二戸の二郡を翌年の早春、実地見分のため歩いていたことが知られます。農家一戸一戸の食料事情を簡潔に記し、「此民のあわれを見れバ東路の 我古郷のおもひ出ニける」と歌に詠んで、日記に書き付けているのでした。

菊池勇夫(日本近世史)