【備忘録 思索の扉】 第七回「《頑張る記憶》と《自然な記憶》」

今回は「記憶」の2つの種類についてお話ししたいと思います。
このテーマは,2年くらい前に考えつき,その後の私の思考に大きな影響を及ぼしているものです。

一口に「記憶」と言っても,色んなタイプの記憶があるようです。
例えば,「長期記憶」と「短期記憶」の区別など,聞いたことがあるかもしれません。
このように,私の知っている限り,多くの記憶に関する分析では,
「記憶された後」の記憶形態の違いを説明したものがほとんどでした。

そんななかで私は,「記憶する過程」にも大きく2つの種類があるのではないかと思ったのです。

1つは,あることを記憶しようと頑張って記憶するもので,「頑張る記憶」と名づけておきます。
「頑張る記憶」の多くは「暗記」と呼ばれるものかもしれません。
例えば,「初対面の人の名前」や「行事の日時」など,何かの情報をピンポイントで覚えようとするものです。
学校で試験前に覚えようとする,英単語や用語,歴史の年号なども,大部分はこれに入るでしょう。

もう1つは,特に記憶しようと思うわけでもなく記憶に残るもので,「自然な記憶」と名づけたいと思います。
「先日デパートで買った服の値段」や「最寄り駅から自宅までの道順」などはそれに当たるでしょうか。
読書(テレビ)好きなら,「夢中で読んだ(観た)小説(ドラマ)のあらすじ」なんていうのもあるかもしれません。
この2つは,何がどう違っているのでしょうか?

「頑張る記憶」は大抵,面白くないため,覚えるために頑張らなければならないのですが,

ピンポイントで最低限の情報を覚えるということなので,一見,効率が良いように思えます。
しかしその反面,忘れやすく,しかも忘れた後に思い出す手がかりがない記憶ではないでしょうか。
そして,仮に運良く記憶に残っていても,活用の仕方がわからない,なんてこともよくあることです。
逆に,「自然な記憶」は,ピンポイントではないため,曖昧なイメージとしてしか残っていないかもしれません。
それでも,覚えるのに苦労せず,わりと長く残っているでしょうし,
仮に一部を忘れたとしても,形を変えて何かしら残っていたり,ふとしたきっかけで思い出したりできそうです。
「自分のものになった」と,実感を持って活用できるのも,きっとこちらの記憶でしょう。
つまり,「自然な記憶」の方が,苦労が要らないわりに使い勝手の良い優れモノなのです。

「自然な記憶」は,なぜそれが可能なのでしょうか?
感情を動かされたからとか,繰り返し経験したからとか,そういうことも確かにあるかもしれません。
と同時に,私が強調したいのは,多くの場合,意味を「理解」しているからだ,ということです。
自分で買った服の値段は,「買うに値する」と判断したから,高かったか安かったか,忘れようがありません。
家までの道順は,他の道では遠回りだったり迷ったりすることがわかれば,間違えることはないでしょう。
小説でも,推理小説で使われた巧いトリックなどなら,細かい部分まで鮮明に覚えているものです。

「理解」するということは,そこに「必然」を感じていると言えるかもしれません。
あるいはそれは,何かと何かの間に「つながり」を見出したということにもなるでしょう。
そうした「理解」や「必然」や「つながり」に支えられて,自然に頭の中に残るのだと思います。
逆に言うと,「頑張る記憶」は,余分な情報をカットしたピンポイントなものだけに,他との「つながり」がなく,
さらに良くないことに,手っ取り早さを求めて意味を「理解」しない丸暗記であることが多いのです。
理解しなければ,もちろん,「必然」など感じられる余地もありません。

何かを知ろうとするとき,すべて「自然な記憶」として取り込めれば,それは理想的なことですが,
現実としては,「頑張る記憶」に頼らざるを得ないことは,多々あるでしょう。
でも,それはそのままでは,自分にとって本物の記憶になる前に,消えてしまう危険にさらされています。
そこで,「頑張る記憶」を「自然な記憶」に変換する方法がないか,考えてみたくなります。
キーワードは,上に述べた「理解」「必然」「つながり」だと思われます。

私はこのところ,なるべく多くの記憶を「自然な記憶」として残し,活用したいと,いつも考えています。
おそらく今後もこの話題について,具体的な実践などにも触れつつ話していくでしょう。
今回は少し長くなってしまいましたが,様々なことに「つながり」そうな土台として築いておきます。

小羽田誠治 中国語・東洋史学)