【備忘録 思索の扉】第九回「初期キリスト教への文献学的案内(2)」

悔い改めた売春婦や聖女に仕立て上げられたマグダラのマリア(以下、マグダラ)。このように歴史的実像をゆがめられてしまったマグダラの名誉回復の責任は、既成のキリスト教の側にあります。初期キリスト教諸資料は、著者または編集者の意図的な執筆作業の跡を反映しており、それ自体論争や闘争の結果です。それゆえ、マグダラ像を歴史的に描き出す場合、正統派側が採用した正典文書と、正統派が排除した異端側の非正典文書の双方に見られる種々のマグダラ伝承を様々な角度から比較分析する方法が有効です。それによって初めて初期キリスト教の複雑な歴史や思想の中身を解明することへと道が開かれます。こういう方法は「テクスト間関係」(Inter-Textuality)と呼ばれています。
マグダラのことは新約聖書の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に言及されていますが、彼女が娼婦であったという記述は一切ありません。マグダラの指導者的役割を抑制し、覆い隠している箇所もありますが、全体的に見れば、イエスにつき従った女性集団の筆頭者として活躍したマグダラの姿が浮かび上がってきます。こういうマグダラ像を自覚的に継承することにより、正統派側とは異なるキリスト教理解を提示した文書の一例が、『マリアによる福音書(Π[E]ΥΓΓΕΓΙΟΝ ΚΑΤΑ ΜΑΡΙΗΑΜΜ)』(Figure 1: Seite 19)です。

Figure 1: Seite 19

Figure 1: Seite 19

三世紀初期のギリシア語写本二篇(アッシュモール博物館所蔵『オクシリンコス・パピルス3525』、11.7㎝×11.4㎝/ジョン・ライランズ図書館所蔵『ライランズ・パピルス463』、8.7㎝×10㎝)と五世紀のコプト語訳写本(前半6頁分と途中4頁分欠落、全18.25頁、約12.7㎝×10.5㎝)が残存し、いずれの写本もエジプト起源です。後者はパピルス紙38枚半折綴じ(約152頁)の『ベルリン写本8502』に収められています。
『マリアによる福音書』では、救済者イエスと弟子たちとの対話という場面設定の下で、制度批判的な主張が堂々と表明され、現代人にも通じる深い霊性が随所に漂っています。たとえば、「世の罪とは何か」と問うペトロに対して、救済者は「罪などといったものはない(MeN NOBE ŠOP)」と明言します。これは、肉体的犠牲を前提とする十字架の贖罪を原理的に批判しています。人間が罪を犯すのは、本来の霊的本質を認識していないからです。救いは、真の霊的本質を自らのうちに発見すること、また、人を誤り導く肉欲やこの世的事柄に惑わされないことによって達成されます。さらに、救済者イエスは言います、「いかなる制限(HOROS)も定めるな」と。ここには規則や制度、信条制定への疑義が唱えられています。これらの人間側の取り決めは、本質的には真の救済と何の関係もないからです。
注目すべきことに、『マリアによる福音書』では、マグダラは男性弟子集団よりも優位に立ち、その代表者ペトロと対立する指導者的女弟子として描かれています。たとえば、マグダラは、自分たちもイエス同様逮捕されて殺害されるのではないかと恐れる男弟子たちを叱咤激励して、「めそめそしないで」「あの方は私たちをまことの人間にしてくださったのだから」(Figure 2: Seite 9)と語りかけます。

Figure 2: Seite 9

Figure 2: Seite 9

この「人間」(eNRŌME)は複数形で言い表されていますので、文脈上、男弟子たちと女弟子マリアの両方が含まれています。そこには性差を超えた人間理解が見られます。マグダラは知性によって救済者イエスの幻視を一度ならず体験し、揺るぎない心の持ち主として直接ほめたたえられています。マグダラの魂は上昇し、諸天を遍歴しながら、暗闇、欲望、無知などの怒りの諸勢力を押し返していきます。流血を伴う権力支配を頼みとしないマグダラの霊的資質こそ、リーダーシップにふさわしいと言えます。自分たちにとっては異質に響く奥義を聞かされた男弟子たちを代表して、ペトロは「あの方が隠れたところで女なんかと口をきいたのか。俺たちがあの女の話を傾聴しなければならないのか」とけんか腰になりました。しかし、マグダラは「わが兄弟ペトロよ、私が嘘をついているとでも思っているの?」と泣きながらやり返します。こうしたやり取りに二~三世紀におけるキリスト教の激しい議論を垣間見る思いがします。
マグダラ伝承は『マニ教の詩編』『フィリポ福音書』『フィリポ行伝』『トマス福音書』などの文書にも確認され、マグダラの地位を際立たせています。(※画像は、Karen King, The Gospel of Mary of Magdala: Jesus and the First Woman Apostle, Santa RosaPolebridge, 2003, pp. 21, 27より転載)
新免貢(初期キリスト教思想)