【備忘録 思索の扉】第十三回 「氷山の水面下に思いをはせる」

bleu turquoise 2018030今年もまた、卒業式と入学式の「あわい」の時を迎えています。全国的に一気に春めいて、関東以南ではもう桜は散り始めているようです。

毎年、桜前線を追いかけたくなる頃合に、大学の授業が始まります。この、一瞬で咲き誇り一瞬で葉桜に変わる桜を見ていて毎年ふと思います。「こんなすごい奇跡は、いったいどうやって可能になっているのかしら」と。

そういえば私たちは手品を見るときまって、「それ、どうやってるの?」と尋ねたくなります。おいしい食事をいただくと、「これ、どうやって作ったの?」と口をついて出ることもあります。自分の子どもや友人の恋人に初めて出会う日に、ひそかに「素敵な人、どうやって見つけたの?」と訪ねてみたくなることもたぶん、ありそうです。

授業づくりや研究論文もまったく同じことです。素晴らしい授業をしていると評判の同僚の噂を聞くたびに、あるいは、目覚しい研究成果論文を拝読するたびに、わたしはつい、独り言をいいます。「いったいどうやって、こんな成果を出せるんだろう」

たとえば授業実践の場合。「どうやってるの」と訊ねれば、聞かれたその先生はたいてい、答えてくれます。場合によっては、とても丁寧に、時間をかけて答えてくれます。ところが、よしそれではそのやり方を実践してみよう!と授業の内容や方法を改良してみても、思うようにはいきません。言うとやるとは大違いです。

「思うようにいかない」一番の理由は、その「素晴らしい授業」「素晴らしい研究」を、どれだけ「丁寧に」「時間をかけて」説明してもらったところで、その授業なり、その研究の礎にある、さらに膨大な時間と情報の束を、説明してもらうことはできないからだろうと思います。授業も研究もきっと、氷山みたいなものなのかもしれません。可視化されるのは水面に見えている部分だけで、本体はきっと、水面下に存在する、膨大な何かであるのに違いありません。

今年度の「思索の扉」では、一般教育部の菊池勇夫先生には四回にわたりエッセイを寄せていただきました(「歴史研究の作業場」)。今年度をもって本学を退職なさる先生のエッセイを、今改めて読み直しながら、目に見える部分だけに囚われることなく、水面下にある膨大なものと関わり続けようとする覚悟と柔軟性に圧倒されつつ、新年度を迎えようとしております。

間瀬幸江 フランス文化論)