聖書の中には「愛」という言葉がよく出て来ます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第1の掟である。第2も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている」(マタイによる福音書22章34節-40節)というイエスの言葉もその一例です。しかし、「愛」という言葉はどうも日本語として据わりが悪い、消化しにくいと感じているのは私だけでしょうか。特に今ではこの単語は社会のいたるところでお手軽に使われているので、言葉の重みが暴落しています。「隣人(他者)を愛せよ」などと聞いても、しらけた気分になる人の方が普通かも知れません。
そもそも、聖書で言う「愛」とは何を意味するのでしょうか。「愛する」と言う時、私たちは多くの場合は感情的なことを考えます。ある人に対して好意を持つ、親しみを感じるといった意味です。しかし、それでは問題が出て来ます。私たちは自分がよく知らない他者にすぐに親しみを感じることはできません。ましてや、聖書にあるように「汝の敵を愛せよ」などと言われれば、「何を言ってやがる」と思う方が自然です。そうなると、必ずしも「愛=好感を持つ」ではなさそうです。
ここで参考になるのが、戦国時代に日本にキリスト教が入って来た際に、南蛮人の宣教師たちがどのように「愛」の語を翻訳したのかという話です。その当時の日本にも「愛」という語はありましたが、それは「愛欲」というように誰かに執着するといった意味合いがあり、聖書の「愛」とは違いました。そこで宣教師たちが苦心の末にどの訳語を選んだのかと言うと、「御たいせつ」です。「愛=相手を大切な存在として扱う」ことだと理解したのです。
当時のキリシタンたちが信仰を学ぶ際に用いた『どちりなきりしたん(キリスト教の教義)』という本が現在も残っていますが、そこには上述のイエスの言葉がこのようにまとめて訳されています。「ばんじにこえてD(デウス、神)を御たいせつに思ひ奉る事と、わが身を思ふごとく、ポロシモ(隣人、他者)となる人をたいせつに思ふ事これ也。」(岩波文庫版、70頁)
ここで言う「御たいせつに思う」とは単なる感情ではなく、相手を大切に扱うという行動を伴う姿勢を意味します。たとえ好感を持てない、普通の意味では愛するとは言えない相手であって、この人も「神にかたどって」(創世記1章27節)創られたかけがえのない存在、神に「御たいせつ」にされている存在であると受けとめて、自分もそのように扱う。それが愛だということになります。安易に扱われがちな現代の「愛」よりも、はるかに本質を突いた表現ではないでしょうか。
この言葉の深さは、具体的なイメージを伴う言い方であるため、暴力を言葉で隠すことに使えないということからも分かります。DVや虐待、ストーキングをして「御たいせつの気持ちから…」と言いわけしても、説得力ゼロでしょう。行動では相手の人格を大切にしていないからです。400年後の社会問題にも斬り込める南蛮人の語彙力、恐るべし。
今さら「愛」を「御たいせつ」に直すことは無理ですが(「世◯の中心で、御たいせつをさけぶ」…高視聴率は望めないですね)、「愛」という言葉に疑問を感じる時には「御たいせつ」と言い替えてみると、今まで見えなかったことが見えて来ます。人種や宗教、ジェンダー理解、経済格差をめぐる対立が世界各地で激化し、ネットいじめなどサイバースペースでも孤独な暴力が広がる現代。どうすれば「御たいせつ」の姿勢をもって他者と共に生きることができるのか、深く考えたいです。
(栗原健 キリスト教学)