宗教改革五百年を記念して、新版ルター訳聖書が昨年出版されました。 “Die Bibel: Nach Martin Luthers Übersetzung. Lutherbibel Revidiert 2017. Jubiläumsausgabe. 500 Jahre Reformation. Mit Sonderseiten zu Martin Luthers Wirken als Reformator und Bibelübersetzer, Deutsche Bibelgesellschaft, 2017”と表記されているこの綺麗な印刷本は、直訳すると、『マルティン・ルター訳による聖書。改訂ルター訳聖書2017年。宗教改革五百年記念版。改革者・聖書翻訳者マルティン・ルターの働きに関する特集頁付き』(ドイツ聖書協会、2017年)となります。「マルティン・ルター訳による聖書」と表記されているように、これはルター訳そのものではなく、現代の改訂版です。頁数2000(1536+特集頁64)、色刷り、装丁は糸綴じ、しおりリボン付き、大きさ 約 14 x 21,4 センチメートル、 重さ1027グラム、価格25ユーロです。青い背表紙、赤い印字の“Die Bibel”という文字、クリーム色表紙の真ん中に配置されたルターのワッペンの白薔薇の紋様といった取り合わせは、デザインとしてもけばけばしさはなく、品位が保たれています。
ルター訳聖書は、カトリック教会の教えに抗って、聖書こそがキリスト教信仰と教義の唯一の鍵であるとするルター自身の信念に突き動かされた文学的出来事であり、ドイツ語散文における最初の文芸作品と評されています。聖霊を媒介としながらも文法遵守を心がけ、一般庶民の口に注意を払うことがルターの翻訳姿勢でした。「翻訳についての手紙」(“Sendbrief vom Dolmetschen ”, 1530)の中でルターは、「人は、ドイツ語を話さなければならないようにラテン語文字を問題にすべきではなく、むしろ家にいる母親、路地の子供たち、市場周辺にいる庶民の男たちに問いかけ、彼らが話すのと同じ口の利き方に注意し、それに従って翻訳しなければならない。そうすれば彼らは実際また理解でき、自分たちを相手にドイツ語を話していることを感じ取るのである」(私訳)と書いています。カトリック側は、ルターの翻訳を良心(Gewissen)に基づいていると批判しました。この批判は図らずも西欧的良心の問題の核心を鋭くついていると私は思います。この良心中心主義は今日に至るまで近代の批評学的聖書解釈のみならず、欧米の思想にまで深く浸透しています。
ルターは、エラスムス版ギリシア語本文・ラテン語本文を底本とし、人文主義者メランヒトンによる修正の協力を得て、1521年9月21日頃、『ヨハネの黙示録』における頁大木版画挿絵21枚入りの二つ折り版一段組“Das Neue Testament Deutsch”―『9月聖書』(Septembertestament)―を翻訳者・印刷者・出版者・発行年月日の表記なしで出版し、一版3千部、二か月間に五千部出回ったと言われています。価格は0. 5グルデン金貨(10. 5グロシェン銀貨=巡回大工の一週間分の賃金)です。しかし、その後、何百箇所にもわたって修正を加え、何回も版を重ねたルター訳聖書には、ギリシア語本文に必ずしも忠実ではない重要な箇所がいくつかあります。その中から三点だけを挙げております。
一つは、「イエス・キリストの信」(『ローマの信徒への手紙』3章22節)という表現です。ルターは、これを“den Glauben an Jesus Christus”(=「イエス・キリストに対する信仰」)と訳しました。底本として用いられたエラスムス校訂ギリシア語本文のラテン語訳“fidem Iesu Christi”は「イエス・キリストの信」を意味します。「イエス・キリストの信」か「イエス・キリストに対する信仰」かという問題は、キリスト教の信仰理解の根幹に関わる深刻な問題です。しかし、日本語訳聖書も含めて、近代ヨーロッパ諸語に訳された聖書の多くは、ルター訳を継承して後者を採用しています。二つ目は、「人は信仰によって義とされること」(同3章28節)という表現です。エラスムスはこれをギリシア語本文に忠実にラテン語に訳していますが、ルターはそこに“allein”(「ただ」)という一語を挿入し、“allein durch den Glauben”(=「信仰によってのみ」)としました。そのほうがドイツ語の用法に適うだけではなく、「信仰のみが義とする」というパウロの神学的意図に沿うとルターは上述の手紙の中で弁明しています。「信仰によってのみ」の「のみ」はギリシア語本文にはありませんが、プロテスタント側は「信仰のみ」を改革の重要な理念の一つして掲げています。三つ目は、「外典」と呼ばれる現行聖書にはない文書群の中で、ルターが尊重した紀元前2世紀頃成立と推定される『ソロモンの知恵』に「世界は義人の擁護者!」(16章17節)という言葉があります。ルターはヴィッテンベルク全巻訳聖書(1541年)において、これを“Die Welt streitet für die Gerechten”(=「世界は義人たちのために戦う」)と意訳しました。
こういう暇な人文学的議論が相手にされにくくなっている世の中の功績主義を悲しく思います。しかし、人文学の衰退により人間世界がミイラ化していくことが懸念されます。
新免貢(初期キリスト教思想)