教員のリレーエッセイ:人間文化学科 特任教授 内山 淳一

こんにちは。人間文化学科で日本美術史や芸術史概説、博物館経営論などの授業を担当している内山です。仙台市博物館で33年間、学芸員として勤務し、その後本学に赴任してきた経緯については前回お話ししましたので、今回は私の専門分野である江戸時代の絵画にかかわるお話をさせていただきます。

もうすぐ夏本番。夏の暑さを忘れさせてくれるのが幽霊です。ところで皆さんは、幽霊にどのようなイメージを抱いているでしょうか。ホラー映画に登場するゾンビや、都市伝説などで語られてきた鬼気迫る姿を想像する人もいるでしょうが、多くの日本人にとって馴染み深いのは、白装束に身を包んだ足のない美しい女性像だろうと思います。その幽霊画の定型を作り上げたのが、日本における写生画の先駆者として江戸後期の京都で活躍した円山応挙(1733~95)なのです。

全国には、この応挙が描いたと伝えるおびただしい数の幽霊画が存在します。明治中期から大正以降にかけて落語や講談などで語られることも多く、「幽霊画=応挙」といった認識が確立していたためでしょう。幽霊画の価値は、何といっても目の前にその存在を実感できるか否かにかかっています。つまり、何よりもそのリアルさ(本物?らしさ)、写実性がキモなのです。実際に幽霊画を手がけていた写生画の大家・応挙を筆者とする作品が世に蔓延しているのも、けだし当然と言えるのでしょう。なかでも青森県弘前市郊外の久渡寺(くどじ)に伝来した作品は、そのすぐれた出来栄えから多くの幽霊画集などでたびたび紹介されてきました。しかし、毎年旧暦の5月18日に相当する日に、それも1時間だけの公開に限られてきたため、日本美術を専門とする者であってさえ実際に目にする機会はほとんどない状況が続いてきたのです。もちろん私も見たことがありませんでした。ところが一昨年、弘前市の有形文化財に指定されることになり、たまたま同市の文化財審議委員をつとめていた私もその事前調査に携わることができたのです。

 

この作品の重要な点は、制作に至った経緯を教えてくれる資料が複数残されていることです。まず、この掛軸を収めていた箱の蓋裏には、弘前藩の森岡主膳(1735~85)という家老が天明4年(1784)に寄進したことが記されています。また要職にあった別の弘前藩士が記した付属文書には、応挙の亡くなった愛妾が夢枕に現れた姿を応挙自身が写生した作品、との記述がありました。本図についてはもともと、森岡主膳が亡くなった愛妾ないし愛娘を慕い、応挙にその姿を描いてもらったもの、との口伝があったのですが、指定に向けての調査過程でそれを証明する興味深い事実が判明しました。森岡家の菩提寺に、「森岡主膳元徳妾國墓」と刻された妾「國」の墓石が確認されたのです。そもそも墓石に「妾」の名を刻む例はほとんどなく、主膳にとって22歳も若いこの女性が特別な存在だったことは間違いなく、その死にまつわる伝承が真実だった可能性が一気に高まりました。主膳が本図を求めたのは、愛したこの女性の一周忌ないし三回忌に向けての回向を意図してのことだったとの想定もできそうです。

その一方で、応挙が幽霊画を手がけるきっかけとなったのが、これもまた若くして亡くなってしまった「雪」という名の応挙の愛妾だったことが別の資料から確認されました。すなわち、今は亡き愛する女性の面影を慕いつつ描き上げた応挙の絵に、同じく若き恋人を亡くした主膳がその面影を重ねる形で、応挙に直接注文したことがほぼ確実といえるようになったわけです。当時の家族制度や家族観、それにもとづく男女のおかれた状況は現代と大きく異なるとはいえ、愛のかたちは今も昔も変わらない事実を教えてくれる作品でもあるのです。その意味からすれば本図を幽霊画と呼ぶのは間違いで、愛する故人の面影を呼び戻してくれる古代中国の伝説上のお香「反(返)魂香(はんごんこう)」を本来の主題とするのが正しいことが理解できるでしょう。

今回の調査・研究に関しては、同じく文化財審議委員をつとめられた歴史や郷土史にかかわる複数の研究者と日本美術史を担当する私とのコラボレーションがあって初めて大きな成果を得ることができました。分野を超えた学際的研究の必要性が唱えられて久しいものがありますが、その重要性を改めて実感させられた機会でもありました。人間文化学科の「歴史文化コース」では、このような複数分野の領域にわたる研究を目指しています。ぜひ皆さんも新たなテーマを見つけてチャレンジしてみませんか。

 

※当時の新聞記事については、以下をご参照ください。
朝日新聞デジタル 記事「応挙の真筆の幽霊画、青森の寺で確認 国内初」(2021/5/20)】

 

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