教員のリレーエッセイ:人間文化学科 教授 大平 聡

ロシア・ウクライナ戦争と日中戦争

 
 日本中がメダルラッシュに沸いた北京冬季オリンピックの最中、ウクライナ東部国境付近に集結し始めたロシア軍を見て、誰が本当にウクライナに全面戦争をしかけると考えたろう。ロシア一流の脅しに過ぎないとみる見方が強かったのではないか。いや、そう考えたかったと言った方がよいかもしれない。アメリカは、早くから、ロシアの軍事攻撃を現実の危機として警告を繰り返していた。
 クリミア半島がロシアに奪われた時、それでロシアの領土欲は満たされたものと考えたのはあさはかであった。ロシアの飽くなき領土欲をあまりにも軽んじていた。ロシアがつけいる隙はあった。ウクライナ国内には、親ロ派と反ロ派が対立し、内戦状態が存在していた。ウクライナ東部国境付近、クリミア半島をロシアと結ぶ地域である。ロシアはそこにつけ込み、反ロ派を「ネオナチ」と呼び、親ロ派支援を反ナチズム運動として正当化して、ウクライナ「征伐」についに踏み出した。
 この、あまりにも20世紀的な領土拡張戦争に世界は震撼させられている。
 ひとたび戦争が始まれば、軍事作戦は成功裡に終わらせなければならない。早期の戦争終結は、即ち一刻も早く決定的大打撃を与え、戦意を喪失させ、敗北を宣言させることである。そのためには、手段を選ばないことは、これまでの戦争が雄弁に語っている。一般市民を被害に巻き込み、国全体から戦意を喪失させること、そのためには、徹底的破壊と殺戮が不可避的に選択される。
 ロシアには、自国のこの様な非人道的で無慈悲な行為を恥じ、反対の意志表示をした人々がいた。しかし、ロシア政府は、この様な活動を反国家的策動として法を改悪して取り締まる選択を行った。様々なレベルでの「身の危険」を感じた人々が国外へと脱出している。その結果、ロシア国内では、この戦争を支持する人々の割合が急速に「増加」するという現象が起きている。情報があふれかえっているこの時代に、どうしてこれだけの非道な行いを正しい行いと支持することができるのであろうかという疑問を抱かずにはいられない。
 
 1945年8月15日の敗戦から20年、25年たった頃、なぜ、戦争に反対しなかったのかという問いが戦争経験世代に発せられるようになった。「戦前の状況では仕方がなかった」という答えが繰り返された。「戦前の状況では仕方がなかった」という回答に対しては、知識として、そうであったろうと考えられてきた。思想警察である特別高等警察が市民社会に対して目を光らせ、隣組を利用した相互監視制度が市民を沈黙させ、縛り付けていた。そういう図式は少しでも日本史を学んだ人には容易に思い浮かぶ。
 
 しかし、それだけではなかった。中国に対してしかけた侵略戦争を、多くの日本国民が、中国の中で虐げられている人々を助け、彼らの「自立」を支援するために行っている戦争なのだと信じ、政府の戦争政策を支持する意思を表明していた。私が読んだ、1934(昭和9)~1938(昭和13)年にかけての石巻のある青年商人の日記には、1937年7月7日に起こった盧溝橋事件に端を発する日中戦争1年目の所感に、「日本がこんなに中国のためを思って烈しい戦いをしているのに、何故中国の人々はそれを理解して戦争を終わらせないのだろう」という趣旨の記述を行っていた。
 
 ロシアのウクライナ攻撃の「論理」構築と、その正当化のための情報操作、その結果としての高い国民の政府支持という現象に接し、私は日中戦争に対し、今まで以上にリアルな認識を持つようになった。
 
 こうして日本国民は無謀な戦争に駆り立てられていったのか。
 
 「駆り立てられる」というのは、後から追われるようにして従わされるということではなく、政府の言葉を信じ、その実現のために自ら積極的に行動することに「駆り立てられる」という意味である。
 
 ロシアのやり口を見ていると、満洲事変から日中全面戦争へという日本の戦争政策と重ね合わせて見ることができるように思う。その結果、日本は全世界を相手に戦うこととなり、膨大な生命を失い、財産を喪失させた。だから、戦争は決して利益を生まない。それは日本がすでに証明して見せたことではないか。ロシアよ、日本の二の舞となるな。日本の過ちの轍を踏むな。そう助言する力を日本政府は持っているか。現政府にそれを求めることはできないであろう。なぜなら、今だに、というより、戦争世代が少なくなってきている今だからこそ、「あの戦争は間違っていなかった、世界が日本を追いこんだから、やむなくやったことなのだ」という戦争無責任論が堂々と幅を利かせようとしている。
 
 「核シェア論」まで飛び出してきている。有事の際は「核兵器」を所有している国から分配を受け、防衛力を強化しようというとんでもない議論である。唯一の被爆国として、兵器の中でも最悪の「殲滅」機能を有する兵器の地上からの追放をこそ言うべき国が、最悪の兵器を正当化する論理に加担するなどということはあってはならない。
 
 化学兵器、生物兵器の使用が危ぶまれている。それらは「非人道的兵器」と呼ばれることもある。非人道兵器として国際的に名指しされているクラスター爆弾がすでに使われたとの報道もある。しかし、では「人道的兵器」などあり得るのか。人が人の生命を奪うことはそれが一人を相手にするものであれ、複数人を相手にすることであれ、非人道的行為にほかならないのではないか。その手段に用いられる「道具」はすべて「非人道的兵器」と言うべきではないか。そもそも「人道的」に行われる戦争などあり得ない。戦争自体が「非人道的」行為にほかならない。
 
 ロシア・ウクライナ戦争は、人ごとではない。その結果が私たちの生活に及んでいるからということからだけではなく、自分ごととして考えなければならないことである。戦争という究極の暴力行為が国際問題の解決に何等有効性を発揮するものではなく、むしろ根本的解決から遠ざける愚策であることを私たちははっきりと認識し、戦争に価値を見出そうとするような考え方に対しては、明確に拒絶の意思を示し、その誤りを認識させていかなければならない。
 
 戦争世代に育てられ、教えられた経験を有する大学教員が、今、全国の大学から消えつつある。平和と人々の幸福に貢献しない学問は学問ではないと教えを受け、その実践に取り組んできた教員が姿を消そうとしている。私もその一人である。ここに記した言葉が、一体どれ程の人々に届くだろうか。一人にでも、二人にでも構わない。人数の問題ではなく、ここに記した言葉を受け止めてくれる人が一人でもいたら、私はこの大学で教員として働いてきたことに誇りをもって去ることができる。