2022年9月30日 大学礼拝
創3:1-10、讃美歌21-200小さいひつじが
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
今日の聖書に最初の人間アダムが出てきました。神はアダムに言いました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」創世記2章16-17節の記事です。
アダムの妻エバのところに蛇がやってきます。蛇は女に尋ねます。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」蛇がどうやって人間の言葉をしゃべったのか。これは昔からの大問題です。最近の学説では、蛇はたくみに「へびライ語」を語ったのではないかと言われています。下手な冗談はさておき、蛇はここで巧みに嘘をついています。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と蛇は誘導尋問しますが、神はそんなことは言っていないのです。神は「善悪の知識の木」だけは食べるなと言ったのです。
もちろん蛇は意図的に話をすり替えています。蛇の目的は人間を神から背かせることです。ですから蛇は神の命令を「どの木からも食べてはいけない」と、一段エスカレートして引用するのです。ずるがしこいのです。しかし賢いエバは蛇の挑発に乗りません。「いいえ、わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけないと言われました」と正しく答えました。ただ彼女は、聞かれていないことを話してしまいました。「触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」それは余計なコメントでした。
「死んではいけないから」という言葉を蛇は見逃しません。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」こうして蛇の巧みなそそのかしにのり、アダムとエバは木の実を取って食べました。蛇の言うとおり、二人は死にませんでした。そして目が開けました。二人は自分たちが裸であることを知って恥ずかしくなり、いちじくの葉をつづり合わせて腰を隠しました。その日の夕方、神さまが園を散歩する音が聞こえてきました。二人は神を恐れ、神の顔を避け、園の木の間に隠れます。神さまは二人に尋ねます。「あなたはどこにいるのか。」
ある高名な聖書学者が、大学でこの創世記3章を講義していました。そして「あなたはどこにいるのか」というこの言葉に差し掛かった時、突然、絶句してしまったのです。彼の頭は少年時代にフラッシュバックしていました。「少年時代、チャンバラごっこが大好きで、自分で木刀を削りだしたことがあった。とても良い木刀が出来た。何かを切ってみたくて仕方がない。ふと見ると、隣の家の庭先にダリアの花が咲き誇っていた。思わずダリアに駆け寄り、その木刀でダリアの花の茎を横に払った。花は見事に切断され、宙を舞った。そしてその瞬間、そのダリアは、自分を日頃可愛がってくれた隣のおじさんが丹精込めて育てていた花であることを思い出した。木刀を放り出すと一目散に家に帰り、押し入れの中に隠れた。押し入れの奥の布団と壁の間に隠れた。お母さんが帰って来た。隣のおじさんから話を聞いたのだろう。自分の名を呼んでいる。『タカシ、タカシ、おまえはどこにいるの?』そう自分を呼ぶ母の声が、押し入れの奥まで聞こえてきた。この母の声が、それから何十年も経った聖書の講義の最中に、突然、頭に響いてきた。『あなたはどこにいるのか』。ああ、創世記のこの言葉は、こういうことだったのかと急に腑に落ちた。」(大貫隆著「聖書の読み方」より)
神はなぜ、食べてはいけない木の実をわざわざエデンの園の真ん中に植えられたのか。私にはこのことがずっと疑問でした。そしてある日、これは人が人間になって行く上で、避けて通れない道だったということに気付きました。人が人間になっていく過程で、罪を犯して神から背くということは不可避だったということです。神はアダムとエバに「この木の実を食べるな」と命ずることによって、彼らがこの実を食べるという自由を持っていることを暗に教えています。その自由とは、人間が知識を獲得し、善悪を知るという自由です。ここで言う「善悪を知る」とは、けっして善悪の分別を知るという意味ではありません。もしそうだったらウクライナ戦争は起こらないはずです。そうではなく、善いことも悪いことも知る、という意味での様々な知識を獲得するという意味です。その知識には、「神はいない」という思想さえ含まれています。その自由には、「神はいない!」と叫ぶ自由さえ含まれています。そのことをご存知の上で神は、人が罪と引き換えに、知識と自由を持つ今の人間の姿になる可能性をエデンの園の真ん中に置かれたのでした。私はここに神の愛を感じます。けっきょく人間は罪を犯してこの木の実を食べ、そのことによって知識と自由を獲得し、人間となりました。そして神から身を隠そうとするようになりました。
「かくれんぼ」という遊びがあります。考えれば不思議な遊びです。「かくれんぼ」は、上手に隠れ、そして見つかるゲームです。必ず最後に見つからなくてはなりません。でないとこの遊びは終わりません。「かくれんぼ」がとてもうまい子どもがいました。あまりにうまく隠れるので、いつも友達は捜すのを諦めてしまい、ほかの遊びを始めてしまいます。するとその子はムスッとした顔で現れ、「どうして最後まで捜さないの!」と怒ります。そして喧嘩が始まるのでした。完璧に隠れてしまったら、隠れん坊ごっこは成り立ちません。私たちは見つからなくてはいけないのです。「あなたはどこにいるのか」――今日も神の声が聞こえます。そしてたとえ私たちがどんなに上手に隠れ続けていようとも、どんなに陽が暮れようとも、けっして諦めないで私たちが隠れているところまで捜しに来て下さるお方がおられます。それが私たちの主、イエス・キリストです。