学位記授与式 卒業生に贈る言葉
本日ここに、晴れて学士の学位と修士の学位を授与された皆さん、おめでとうございます。宮城学院女子大学を代表して、お祝いを申し上げます。また、ここに至るまでお子さまを支えてこられた保護者の皆様、心よりお慶びを申し上げます。
皆さんの宮城学院女子大学における最後の1年は新型コロナに明け、新型コロナに暮れるものとなりました。ここに集う全員がくやしい思いをしています。苦しい思いをしている人も多いことでしょう。そうした思いを共にしながら、しかし本日は、新型コロナ禍の時代を乗り超えるよすがとして、皆さんが本学で見つけた3つの宝物をご一緒に確認したいと思います。
皆さんが本学で見つけた第1の宝、それは何といっても数多くの「出会い」です。そもそも大学は、中世のヨーロッパで、学問を求めて旅する若者たちが都市で出会い、協同組合を作り、自分たちを教えてくれる教師と契約を結ぶことから始まりました。大学の原点には人と人との出会いがあるのです。
「出会い」は「出来事」として私たちの人生に垂直に降ってきます。今からちょうど50年前の1971年の3月、京都の高校を卒業したばかりの私は、誰一人知る人のいないこの街仙台にやってきました。そしてこの街でいちばん最初に口を聞いた男と、私は今でも一緒に合唱を楽しんでいます。11年前には一緒に合唱団を創り、彼は事務局長を、私は指揮者を務めています。そんな人生になるとは50年前、思ってもいませんでした。しかしそれが人生です。
人はそれを偶然と呼ぶかも知れません。しかし私はこんな素敵な人生を偶然と呼びたくありません。本学の建学の精神に倣い、私はそれを神の導きと呼びたいと思います。「偶然」、「神の導き」、「ご縁」――呼びかたは様々ですが、大切なことは「出会い」が自分の思いを超えた「出来事」として起こっているということです。この点で、オンラインに代表されるデジタル技術は「出来事」を極力排除するシステムであることを忘れてはいけません。私たちがネットにアクセスする時、私たちは自分のほしい情報を取りに行き、聴きたい音楽を聴き、共感できる意見を見に行きます。そこでは「出会い」が起きにくいのです。本学がコロナの禍中、可能なかぎり対面式の入学式や授業を行おうとしたのは、大学の本質が、人と人とが<出会う>ことにあるからでした。
皆さんが本学で得た第2の宝、それは<問うこと>の大切さです。大学で皆さんが出会ったのは<他者>でした。<他者>とは自分を豊かにしてくれる自分以外の存在すべてです。<他者>と出会い、<他者>に関心を持つとき、そこに問いが生まれます。皆さんは高校まで、問われたことに対して正解を答える訓練を受けてきました。受験勉強は、問われたことに如何に素早く正確に答えるかの訓練でした。しかし、皆さんが本学で学び、そしてこれから社会で直面する問題は入試問題ではありません。どの範囲から出題されるかわかりません。答えがあるかどうかもわかりません。2つ以上答えがあるかもしれません。
このような問題に答えるには、皆さんは「問い」自身に逆に問いかえさなければなりません。問う相手は国、社会、上司、仲間、そして自分自身です。しかし日本は質問するのに大変勇気がいる社会です。目上の人に質問すると反抗と取られます。目下の人に質問すると、いじめと取られるかもしれません。分からないことを普通に質問するのが、とても難しい社会です。最近ある政治家の発言を巡って「わきまえる」という言葉が注目を集めました。私がこの発言に憤りを憶えるのは、そこに質問者へのさげすみを見るからです。この発言をした政治家は「わきまえる人」のことを「わからないことがあっても質問しない人」という意味で使いました。そして彼は「女性はわからないことがあると何でも質問するから、女性がいると会議が長くなる」と言ったのです。私は、大いなる皮肉をこめ、この発言は女性に対する誉め言葉であると思っています。彼は、女性がよい質問者であることを認めたのです。日本社会が今日抱える問題の多くは、おかしいと思っても質問しないことにその原因があります。ご卒業の皆さん、どうかよい質問者になってください。そして勇気をもって質問する人をリスペクトしてください。「質問」こそは私たちの社会を豊かにする大切な方法なのです。
皆さんが本学で得た第3の宝、それは多様性への理解です。<他者>と出会うことは、不一致と出会うことです。しかし私は最近「実り豊かな不一致」という素敵な言葉に出会いました。本当の「他者との出会い」は、この「実り豊かな不一致」まで私たちを導くのです。そしてそのとき私たちは多様性の大切さを本当に理解するのです。今日、「多様性」は多くの公文書にも登場する重要なキーワードです。なぜ私たちは多様性を尊重しなければならないか。それは私たち一人一人が神からかけがえのない「個としての尊厳」を戴いているからであります。ハーバード大学のドナ・ヒックス教授は「尊厳」という言葉を定義して、The value and vulnerability of all living things ――創られしもの全てが持つ価値と弱さ――と言い表しました。ここに「弱さ」と訳されたvulnereabilityという言葉は、より正確には「傷つきやすさ」という意味です。私は「個の尊厳」が「傷つきやすさ」として定義されていることに深い洞察と慰めをおぼえるものです。今から1年前、ロックダウンされた中国の武漢の街で作家方方(ファンファン)さんは「武漢日記」を著し、「一つの国家が文明的かどうかを計る尺度はたった一つ。それは、その国の弱者に対する態度なのです」と書きました。ここでも<弱さ>という言葉が大切な概念として用いられています。
私たちの大学が今から135年前、宮城女学校として女性のための学び舎として建てられたのも、それは、当時の女性たちが今よりはるかに弱い存在だったからでした。私たちは、本学が、人間一人一人の弱さ、傷つきやすさへのリスペクトを礎として建てられ、そのことを通して個の尊厳を重んじ、多様性を尊ぶ女性たちを育んできたことを誇りを以て憶えたいと思います。しかし同時に私たちは、使徒パウロが、そのコリントの信徒への手紙Ⅱの12章で、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との主のみ声を聞き、そして「わたしは弱いときにこそ強いのだ」と教会に書き送っていることを、合わせて心に刻みたいと思います。
今日は皆さんにとって新しい人生の旅立ちの日であります。長い人生から見れば、宮城学院女子大学で過ごした年月は短いものです。そこで学んだ知識も、あるいは限られたものでありましょう。しかし皆さんは、「人生の歩き方」を本学で学びました。宮城学院女子大学での学びが、皆さんのこれからの長い人生の豊かな礎となることを心から願いまして、学長からのお祝いの言葉といたします。
本日は、ご卒業、おめでとうございました。
2021年3月19日
宮城学院女子大学
学長 末光 眞希