本日ここに、晴れて学士の学位と修士の学位を授与された皆さん、おめでとうございます。宮城学院女子大学を代表して、心よりお祝いを申し上げます。また、ここに至るまで皆さんを支えてこられた保護者の皆様にも、心よりお慶びを申し上げます。
この世に生を受けてから二十有余年。保護者の方々には、神様に与えられた小さな命を両腕に抱いたときの感触と感動を、まだ覚えておられることと思います。少しずつ大きくなって小学校に入学し、十代の思春期を経て二十歳の成人式を迎えました。そして今日この日の卒業式で、立派に成長したお嬢様の晴れの姿をご覧になっておられます。保護者の方々には、走馬燈のように、これまでの想い出がよみがえってきているのではないでしょうか。感慨もひとしおのことだと拝察いたします。
ところで、卒業される皆さんのことですが、大学や大学院に入学してからのみなさんの学びや大学生活はいかがだったでしょうか。
一生懸命に自分が学びたい学問を修得しようと、がんばった人たちも少なくないと思います。特に専門分野の学びは、やればやるだけ自分の力が伸びて、知識が蓄積されていくことを実感することができたと思います。卒業論文や卒業研究、卒業演奏などを経験した人たちは、そうした感覚を味わってきたのではないでしょうか。
一方で、在学中にそうしたことをしっかりと身につけることができたかどうか、自信をもてない人がいるかもしれません。また自分の学んだ分野のことが、はたして、これからの人生において、どの程度役にたつのだろうか、と疑問に思っている人もいるのではないでしょうか。
大学での学びというのは、必ずしも即効性のあるものではありません。大学のカリキュラムにも実務的な知識やテクニカルなノウハウはありますが、中心となるのは、教養人として身につけておくべき教養や、それぞれの学問分野の基礎的な知識、および学問の方法を修得することにあります。そのうえで、そうした知識やノウハウを展開して、次のステージに能力や思考力を高めていくこと、それが大学での学びになります。
大学で学ぶ教養というのは、単に幅広い知識ということだけではなく、そうした知識をもとに思考する力、つまり考える力も含まれています。単に記憶すればよい、暗記をすればよい、ということではなく、どのようにモノゴトを見、そして解釈し、さらに評価をしていくのか。そうした思考する能力を身につけるということが、大学教育の大きな使命であります。
ですから、みなさんが高校生の時よりも、あるいは入学したばかりの時よりも、ものごとを筋道立てて考えることができるようになったとか、以前よりは理屈がいえるようになったと実感しているのでしたら、それは明らかに学びの成果があらわれているということができます。日々の成長は自分では、なかなかわかりません。しかし四年前の自分と比べてみると、自分で自分の成長を確認することができます。
大学院に進まれた方々は、学部での学びをさらに極めようという志をもって進学をされました。そこでは、より高度な学問の方法を身につけ、専門性を高めています。大学院での二年間は、さらに学びの充実感を味わったのではないでしょうか。専門家としての基礎を一層高めたと思います。
多くの教養を身につけ、専門を深めるということは、自分の考え方や生き方の基礎をつくるということでもあります。それは自分の価値観や社会観を作り上げていく過程でもあります。そこに人格の形成があるということになりますが、人格のなかには他者・他人との人間関係を円滑に運ぶということが重要な要素としてあります。それには礼儀や常識的な振る舞いが大切ですが、みなさんに大事にしてほしいと思うことの一つは、世の中には、多様な価値観やさまざまな考え方が存在するということであります。
自分の考えが正しいと思うことは、当然のことです。しかし生い立ちも境遇も立場も違うそれぞれの人には、それぞれの価値観があり、考え方があります。異なる考え方に対して異論や批判を出すことは、社会や組織の公正な運営のためには不可欠なことです。
しかしその一方で、自分とは異なる考え方についても尊重する姿勢を保つことが大切です。自分の考え方だけが正論であり正義だとするのは、適切ではありません。それぞれの意見はそれぞれの立場から出てきていますので、正論や正義は人の数だけあるということができます。自分の意見あるいは自分たちグループだけの意見を絶対化するのではなく、それをできるだけ相対化する視点や対応も必要だと思います。
角突き合わせた議論はあってもよいのですが、さまざまな問題を力による解決ではなく、議論や交渉などによって解決しようとする場合には、意見や利害関係を調整するということがとても大切になります。
行政や政治、裁判制度などが存在するのは、まさに多様な意見と利害関係を調整する仕組みがこの社会に必要だからであります。つまり多様な価値観、多様な考え方、異なる利害関係が存在するからこその社会ですし、対話によってその共存をはかるのが民主主義の精神だと思います。そのような精神もまた、本学の学びのなかで身につけていただいたのではないかと思います。
宮城学院の学生たちが、この共存・共生の思想を十分に身につけてくれているということを、私はここ数年の大学祭のテーマから感じ取っています。たとえば、二〇一六年の大学祭のテーマは、「”Ohana” (オハナ) ~咲きほこれミヤガク~」でした。オハナとはハワイ語で家族という意味だそうですが、これには血縁関係にない人も含んでおり、大切な友人や仲間のことを指す言葉としても用いられているとのことです。大学祭の実行委員会は、ハワイ語の「オハナ」を日本の「お花」つまりフラワーにかけているのだと思いますが、宮城学院の学生や教職員だけではなく、参加してくださる全ての人たちとの絆が深まり、オハナが満面開花するようにしたいという大学祭実行委員会の思いが込められていました。
そして二〇一七年の大学祭のテーマは、「tuttiー共に奏でるハーモニー」でした。「tutti(トゥッティ)」とは、音楽用語で「みんな」とか「全部」の意味だそうです。オーケストラや合唱などで全員が同時に演奏したり歌ったりするときに、ここはトゥッティで、と指示されるとのことです。トゥッティの対語はソロ(solo)になります。ソロとは「独唱」や「独奏」のことです。したがって、個人が責任をもって受け持つのがソロで、みんなで足並みをそろえるのがトゥッティだということになります。ここまでくると、大学祭実行委員会がテーマに「tutti」を掲げた意味がよくわかります。
大学生活はもちろん、社会生活一般がソロとトゥッティの組み合わせから成り立っています。soloやpartといったそれぞれの個性を大事にしながら、全体、つまりtuttiの調和をつくりあげていくこと。ここには人間関係や組織、そして共同体や社会の望ましいあり方が示されています。つまり人間関係の理想とは、立場や考え方の違いを超えてハーモニーが奏でられることなのだと思います。
こうした大学祭のテーマを選んでくるまでの間には、実行委員会や参加する学生の間でいくつものテーマ案が出され、かなりたくさんの意見交換がなされたのではないかと思います。しかし最終的にこれらのテーマに落ち着いていった過程を考えると、多くの学生たちが、共に生きるということ、そして円満で調和のとれた人間関係や社会のあり方を求めているのだということがわかります。みなさんこそ、平和と豊かな人間関係を希求する存在なのだということができます。それはまさに宮城学院が求めてきた人間像であり人格にほかなりません。
みなさんはこのようにして、人間としての力を形成し、それにふさわしい教養を身につけ、人格を磨いてきました。宮城学院女子大学が、みなさんの人間として生きる力を習得する場になってきたことを確信しております。
最後に、お願いがあります。二〇一一年の東日本大震災のとき、みなさんは高校生でした。それぞれの場で巨大地震と巨大津波を経験し、見聞したと思いますが、学生時代はこの宮城県で過ごしてきました。被災地の状況、被災者の方々の困難な状況など、実際に見聞きし、多くの情報にも触れてきたと思います。被災地支援のボランティアに参加した人もいると思います。被災地にある大学の学生であったということを、卒業後も大切にし、被災者や被災地に思いを及ぼしていただきたいと思います。
皆さんは青春の大切な時期を、この宮城学院で過ごしました。煉瓦色に包まれたこの美しいキャンパスの風景を、その目と心に焼き付けておいてください。この宮城学院で学び、経験したことが、みなさんの人生の礎となり、心の糧となることを願って、私からのお祝いの言葉といたします。
本日はおめでとうございました。
2018年3月20日
宮城学院女子大学
学長 平 川 新
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