【大学礼拝説教】受難と情熱――ふたつのパッション

2022年5月27日 大学礼拝
フィリピの信徒への手紙3章12-14

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 
新型コロナウイルス・パンデミック3年目に入りました。今年の秋・冬にはまた次の波がやって来るという予想もあります。新たな脅威となる変異株が出現する可能性も否定できません。本当に、いい加減にしてほしいという気持ちです。私はコロナが流行り出した2年前の4月に本学の学長に就任しましたが、いまだ本学の教職員の素顔をほとんど知りません。マスク越しの顔しか見たことがないのです。その間、学生の皆さんが、そして教職員たちが楽しみにしていた多くの行事が新型コロナで中止になりました。ですから私は新型コロナが憎くて、憎くてたまりません。「コロナと共に生きよう」と言われてきましたが、なかなかハイそうですか、と言えません。「コロナに負けてたまるか!」ずっとそう思って来ました。
 
私の頭の中にはずっと一つの言葉が鳴り響いていました。それは“パッション”という言葉です。昨日、「ジェンダー平等と持続可能な未来」というシンポジウムが開かれましたが、講師のフィンランドセンター所長のアンナ・マリアさんの中心メッセージもまた、「皆さん、パッションを持ちましょう!」でした。“パッション”には二つの意味があります。一つは<受難>、もう一つは<情熱>です。コロナ禍、あるいは女性差別による受難というパッション、そしてそうした状況に負けてたまるかという情熱のパッション、私たちの心の中にはいつもこの二つのパッションがいつも同時に鳴り響いています。
 
パッションが<情熱>を意味することはよくご存じだと思います。一方<受難>としてのパッションについては、ご存知ない方も多いことでしょう。ただいまご一緒に歌った讃美歌の311番は、ヨハン・セバスチャン・バッハの書いた有名なオラトリオ「マタイ受難曲」の中に繰り返し出て来るコラールですが、この「受難曲」のことを英語でパッションと言うのです。
 
それにしても一体なぜこの“パッション”は、<情熱>と<受難>という、正反対ともいえる二つの意味を持つことになったのでしょうか。この問いに答えるには、パッションという言葉がパッシブ、つまり受動という言葉と同じ語源を持つことを知る必要があります。“パッション”という言葉の根っこには「自分ではどうにもならないこと」、「自分がまったくの受け身となるしかない出来事」という<受け身>の語感があります。そしてそこから転じて、「降りかかる苦難としての受難」、そして「突き動かされる情動としての情熱」という二つの意味が生まれてきたのです。
 
「マタイ受難曲」は、主イエスが最後の晩餐で弟子たちと別れを告げ、ゲッセマネで捕らえられ、ピラトの裁判で死刑宣告を受けられたこと、しかし主イエスはこの苦難から逃げることなくそれをこの身に引き受けられ、十字架を担いでドロローサの道を歩み、ゴルゴダの丘で処刑されたことを、管弦楽、声楽のソロ、そして合唱でつづる宗教的音楽劇=オラトリオです。この主イエスの受難物語ほど、受難としてのパッションが情熱としてのパッションと同じルーツを持つことを説明するものはないように思われます。主イエスはその身に降りかかる受難から逃げず、そこに立ち続けることによって、この十字架を、人間を救うための「受難の出来事」としてその身にお引き受けくださったわけですが、この受難の場に立ち続けるというのは、ものすごい情熱を必要とする行為です。いまウクライナの国内に留まって過酷を極める日々を送っておられる人々の様子をテレビで見る時、そこに二重の意味でとてつもないパッションを見出さずにおれません。私たちにとっての新型コロナ、あるいは女性の方々にとっての理不尽な差別もまた、やはり大きなパッションでありましょう。
 
こうして、主がお受けになったパッションによって、主イエスの十字架は私たちの罪の身代わりとなりました。それは先ほどご一緒に歌った讃美歌311番の2節に「主の苦しみは わがためなり」、とある通りです。今日ご一緒にお読みしたフィリピの信徒への手紙第3章12-15節は、私の大好きな聖書の言葉の一つです。

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 
フィリピの教会に宛てたこの手紙を書いたパウロは、ローマの獄中からこの手紙を書いています。彼は獄中にいながら、走っています。受難の中で情熱を持って走っています。何が彼を走らせているか。それはキリストの十字架です。キリストがパウロの罪を背負い、彼の身代わりとなって十字架に架かってくださった。この、主がお受けくださったご受難<パッション>こそが、パウロを走らせる情熱<パッション>となっているのです。苦しい日が続きますが、私たちもまたパウロにならい、 後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る ものとなりたいと思います。