2022年5月25日 全学教職員礼拝
ヨブ記1章21節、13章1-3節
コリントの信徒への手紙Ⅰ10:13
21「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1章21節)
1 そんなことはみな、わたしもこの目で見
この耳で聞いて、よく分かっている。
2 あなたたちの知っていることぐらいは
わたしも知っている。
あなたたちに劣ってはいない。
3 わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。(ヨブ記13章1-3節)
13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリントの信徒への手紙Ⅰ10:13)
1.神の与え給う試練
なぜ悪人が栄え、義人がつらい目に会うのか──これは古今東西、人の心を捉え続けてきた問いです。この問題に真正面から取り組んだ物語、それが今日ご一緒に読んだヨブ記です。
ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、ラクダ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。(1:1-3)
ヨブの、恵みに満ちた人生は、彼の信仰の正しさの証明でありました。しかしまさにこの正しさの故に、天上では恐ろしい計画が実行に移されようとしていました。ある日、神の所にサタンがやって来ます。皆さんサタンというと角が生えて先のとがった尻尾がある、マンガのバイキンマンみたいな姿を連想すると思いますが、ここで言うサタンはちょっと違います。それは天使の一人であって、神の周辺に仕える者の一人でした。ただ、天使とは言え、人間の罪のあら捜しを行い、それを神に言いつけるのが任務の、ひねくれた天使でありました。
神はサタンに言います。
「お前はどこから来た。」
「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました。」
「お前は私の僕ヨブに気付いたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
サタンは言いかえします。
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
あなたはヨブとその財産を守っていらっしゃる。だからヨブは信仰を保っているのです。彼の財産を奪ってご覧なさい。ヨブはただちにあなたを恨むことでしょう。これがサタンの論理です。この言葉にはっきりノーと言える人は、そう多くはいないと思います。私も言えません。サタンの主張は、精神が肉体を支えているのではなく、肉体が精神を支えているのだ、ということです。サタンは、ここで優れたマルクス主義者として神に対峙しています。
サタンに対して神は答えます。
「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」
こうして神の許しを得たサタンによって、ヨブに次々と不幸が襲います。彼の牛の群れは他部族に襲われて全頭奪われる。山火事で羊も羊飼いも全部焼け死んでしまう。ラクダも他部族に全頭奪われます。そして長男の家で息子、娘たちが大宴会を催している最中に大風が吹き、家が倒れて全員死んでしまいました。
これら一連の悲劇が、天上で神がサタンに許可した、いわば「実験」として地上で起こっていることをヨブは知りません。その実験とは「人は不幸の極みであっても神への信仰を失わないか」という問いに答えるための実験でした。研究倫理規定違反もはなはだしい実験です。このような、神が私たちを試す実験のことを「試練」と言います。私たちがつらいのは、それが試練と分からないことです。今日ご一緒に読みました新約聖書、コリントの信徒への手紙Ⅰ10:13で、パウロは試練について次のように語ります。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に逢わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
どれだけ多くの人が、これまでこの言葉に慰められてきたことでしょうか。最近では競泳の池江璃花子選手がそうでした。2019年2月、自分が白血病と診断されたことを発表した彼女は「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、と思っています」と述べました。時代は前後しますが、ヨブもそうでした。ヨブは、ヨブ記1章21節で次の有名な言葉を述べるのです。
わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。
こうしてヨブは度重なる試練にも関わらず、神に対する信仰を捨てませんでした。
2.真実な信仰
神とサタンの勝負はこれで決着がついたのでしょうか。とんでもない。ヨブ記は全42章ある書物で、まだ第1章が終わったばかりです。話はまだまだ続きます。神はサタンとの賭けに勝ち、「どうだ、ヨブの信仰は、やはり本物だったろう」とサタンに自慢します。しかしサタンは引き下がりません。「お言葉ですが神さま、所詮、他人(ひと)の不幸は他人(ひと)の不幸。今度は彼自身に不幸が襲うようにさせてください。今度こそ、彼はあなたを恨むことでしょう。」マルクス主義で神に負けたサタンは,今度は実存主義で神に対抗しようとします。
あわれヨブは、こうして天上での神とサタンの二度目の賭けの犠牲となります。彼は重い病にかかります。それは象皮病というひどい皮膚病で,体の至る所が角質化する病でした。彼は灰の中に座り、陶器の破片を取って体をかきむしります。苦しむヨブを見てヨブの妻は言いました。「いつまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」。ここで「呪って」と訳される箇所は原語で「シャーローム」という、イスラエルのお別れの言葉が使われています。つまりヨブの妻は、「あなたはいつまで偽善者ぶっているのです。神にサヨナラを言って死んだほうがましでしょう」と言ったのです。誰も彼女を責めることはできません。彼女もまた介護で苦しんでいます。すべての財産と大切な子どもたちを失い、今、夫は病に苦しんでいる。しかもその夫は神への信仰を全うせんがために、自分を襲う悲劇を受け入れようとしている。「もうそんな神を信じるのはやめなさい。」そう叫ぶ妻の気持ちは、よく理解できるものです。
そんな中、ヨブの三人の友人たちが見舞いにやってきます。彼らはヨブのあまりの変わりように声を発することができません。一週間を経て、ようやく彼らは語り出します。しかし彼らの言葉は、ヨブにとって、とても冷たい言葉でありました。彼らは言います。
「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか。わたしの見てきたところでは災いを耕し、労苦を蒔く者が、災いと労苦を収穫することになっている。(4:7)」
神は罪のない人を罰したりはしない。人は自分の撒いたものを刈り取るのだ。あなたが今ひどい目にあっているのは、むかし何かしら神に対して悪を行ったからだ。罪を告白して赦しを請いなさい。友人たちはそうヨブに言いました。
こうした友人たちの言葉には、高らかに鳴り渡る正義の響きがあります。しかし彼らの言葉は、病に苦しむヨブの心に届きませんでした。それはまるで、コロナにかかって病床で苦しむ友人に向かって「コロナにかかったのは、あなたが不注意だったからだ」と言うようなものです。私たちの社会は、この2年間、そのような言葉を浴びせ続けてきました。ヨブの友人たちも同様のことを言ったのです。
友人たちの論理は、すべての結果には原因がある、とする因果応報論です。サタンもそうです。「神がヨブを守るからヨブは神を信じるのだ」との主張もまた、一つの因果応報論でした。しかしこの世には因果応報論が成立しない出来事が、時には起こります。私の友人で、高校時代にサッカーでインターハイ全国ベスト16に行った男がいます。高校時代、どんな練習をしたのかと聞いたことがあります。「雨の日の練習」がとても興味深いものでした。雨が降ると監督は選手たちを教室に集め、色んな試合のビデオを見せます。そしてゴールシーンがあるとビデオを止め、選手たちに尋ねます。「今のゴールは誰の責任で点が入ったと思う?」。選手たちは答えます。「やはり、あのスルーパスを出させたミッドフィルダーの守備が甘かったからです」、「ディフェンダーがボールばかりに目が行って、自分のマークを忘れていたからです」、「これはキーパーの判断ミスです」などなど。監督は選手の答えを一通り聞いてから彼の意見を言います。ところがたまにこの監督は、「誰も悪くない。相手がうますぎただけ」と言う事があったというのです。これは本当に面白いと思いました。犯人捜しをしても無駄なゴール、相手が上手すぎただけのゴールがサッカーにはあるということをこの監督は高校生たちに教えたのです。
失点したのはミスをしたから、コロナにかかったのは不注意だったから、罰を受けるのは罪を犯したから、こうした因果応報論が人生のすべてを支配すると考えるかぎり、人は幸せになれません。人生が上手く行かないのは自分のせいだ、と考え続けたら人は落ち込むばかりです。仕事が上手く行ったのは自分の努力の結果だ、と思い続けたら、人は傲慢になります。自己責任論は人を不幸にします。因果応報論や自己責任論には、私たちの心をゆたかにする「清々しさ」がないのです。
ヨブ記全42章は、まさにこの因果応報論/自己責任論と戦い続けた人の物語でした。ヨブ記の作者は、もし私たちの人生が自分の撒いた種を刈り取ることだけで成り立っているとするならば、そこに神様はおられないことをよく知っていました。そうではない!神はどこまでも自由なお方として現存しておられる!神は時にご自身の自由を行使して私たちの人生に深く関わろうとされる!――これがヨブ記の中心メッセージです。友人たちの態度は一見、とても信仰的に見えますが、人生から神を完全に締め出しているという意味で、きわめて不信仰なものでした。ヨブが病をおして友人たちと争ったのは、神の、そして自分の自由を護るためでありました。
自分たちが神になってヨブを非難する友人たちに愛想をつかしたヨブは、直接、神と語ることを望むようになります。今日、お読みしたヨブ記の二番目の箇所13:1でヨブは、
「そんなことはみな、わたしもこの目で見、この耳で聞いて、よく分かっている。あなたたちの知っていることぐらいは、わたしも知っている。あなたたちに劣ってはいない。わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。」
と叫びます。
3.直接語りかける神
突然、つむじ風の中から、神がヨブに応えます。ヨブ記38章です。お前は、私の創造の業の如何に偉大なるかを知っているのか、私の全知全能を知っているのか、とヨブを叱ります。ヨブに対する神の答えは,叱責以外のものではありませんでした。神は自分がサタンに与えた実験許可については一切触れず、ただただ圧倒的な創造の御業の力を示すだけです。ヨブ記4章から37章までつかって繰り広げられたヨブと友人たちとの膨大な論争に対する意見は何一つ語られません。それなのにヨブはこの神の言葉に満足します。ヨブは神の全能を認め、かつて語った自分の言葉を悔い改めました。友人たちに一歩も譲らず、病を押して自分の義を主張してきたヨブでしたが、神の前に自分の非をあっさりと認めたのです。
なぜヨブは、神の言葉を受け入れたのか。あの友人たちの激しい批判の言葉に病床で耐えてきたヨブなのに、なぜこんな「能天気」とも言える神の言葉を聞いて回心したのか。おそらくヨブは、神の言葉の内容ではなく、「神がヨブに語り給うた」という出来事そのものによって癒されたのであろうと思います。それまで沈黙していた神が、直接ヨブにお語りになった。たとえそれが叱責であろうとも、神ご自身がお語り下さった。そのことが、ヨブにとっては何よりの慰めでありました。神の声を聞くことによって、ヨブは、自分を襲う不幸が神の与え給う試練であることを知りました。神は最後の最後に友人たちに、「お前たちは、私の僕ヨブのように正しく語らなかった」と、明確にヨブに軍配を上げます。友人たち、そしてサタンは、ついに神の前に敗北したのです。
「なぜ、義人が苦しむのですか。」ヨブのこの問いを,今ほど全世界が問うている時代はないと思います。一体、ウクライナの人たちが何をして、あれだけの苦しみを受けねばならないのか。世界は、いまだその答えを知りません。今日はただ一つ、ヨブのまさにこの叫びを、神の御子主イエスご自身が叫ばれたことを確認したいと思います。十字架の上で主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」(マタイ27・46)と叫ばれました。この叫びはまさに、「なぜ、この私が苦しまねばならないのですか」とのヨブの叫びに他なりません。主イエスは、私たちに代わって「なぜ、義人が苦しむのですか」と神に問うて下さるお方として、この地に来てくださいました。ヨブが、直接語りかける神の声を聞くことによって慰められたように、私たちもまた、主イエスの言葉を、私たちに直接語り給う神の言葉として聞くことによって、慰めを得たいと思います。