【大学礼拝説教】水を一杯飲ませてくれませんか

2021.06.11

2021年6月11日 大学礼拝
ヨハネによる福音書4:6-10, 15-19

6-10 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

15-19 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。

 
皆さんは、人にお願いごとをするのが得意ですか?私は割合得意です。でも私の周りには、人に頭を下げてお願いするくらいなら自分でやってしまった方が早い、人に借りを作るのは嫌だ、と言う人が多いです。皆さんはどっちでしょうか。今日はヨハネによる福音書に記された一人の女性とイエス様との出会いのエピソードを味わいたいと思うのですが、このエピソードでも、「お願い」が大切な役割を果たしています。
 
この女性はイスラエル北部のサマリア地方にあるシカルという町に住んでいました。彼女はすでに五回結婚していました。彼女がなぜ五回も結婚しなければならなかったのか、その理由を聖書は記していません。夫と死に別れたのかも知れません。昔のイスラエルでは、夫と死別するとその兄弟と結婚しなければならないというきまりがありましたから、五回のうちにはそのような結婚があったのかも知れません。あるいは離婚したのかも知れません。いずれにせよ、五回の結婚に疲れて果てた彼女は、いま正式の夫ではない男といっしょに暮らしていました。これは当時の社会では許されないことでした。彼女は村人から罪深い女と考えられ、見捨てられていました。隠れる様に暮らし、毎日の水汲みも、大勢の婦人たちが水汲みにくる涼しい朝の時間帯を避けなければなりませんでした。最も暑さの厳しい、だからこそ誰にも会う心配のない昼時をわざわざ選び、彼女は毎日こっそりと水汲みにくるのでした。
 
その日も女性は重い足取りで井戸にやってきました。ちょうどお昼の正午ごろでした。彼女が井戸につくと、その傍らに一人の旅人が静かに腰をおろしていました。服装からユダヤ人と分かりました。彼女は旅人には関心を示さずに水を汲み、黙ってかめに注ぎました。すると突然、この旅人は彼女に語りかけました。「すみませんが、水を飲ませてくれませんか。」彼女はびっくりしました。そのころユダヤ人とサマリア人は四百年にわたる争いで互いに憎み合っていました。互いに口を聞くなどということはとうてい考えられないことでした。しかも当時の社会では人前で男性が女性に話しかけることが禁止されていました。ですから彼女は二重に驚いたのです。彼女は言いました。「ユダヤ人のあなたが サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」
 
彼女に一杯の水を願ったユダヤ人は、サマリアを旅していたイエス様でした。イエス様は彼女に答え、「もしあなたが、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に『水を飲ませてください』と頼んだことだろう。そうすれば、その人はあなたにけっして乾くことのない生きた水をあげたことだろう」と言います。彼女はあわてて「ぜひ、その水を飲ませてください。もう二度と人目を避けながらここに水汲みに来なくていいように!」と願います。すると主イエスは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言いました。彼女が「私には夫はいません」と答えると、主イエスは「その通りだ。あなたには五人の夫がいたけれど、今、一緒に暮らしているのは夫ではないからね」と、彼女の身の上をずばり言い当てます。女性は「あなたは預言者に違いない!」と驚きました。
 
ここまでが今日お読みした聖書の内容です。さらに続きを読みますと、彼女は「私は、キリストと呼ばれるメシアを待っているのです」と自分の信仰を告白し、主イエスは「それは、あなたと話をしているこの私のことだ」と告知します。彼女は驚き、水瓶をそこに置いたまま、町に飛んで行きます。そして、「私のことを全部言い当てた人がいます。この方がメシアかもしれません」――と人々に告げたのでした。
 
町の人々が彼女のこの変化に驚かないことがありましょうか。それまで自分たちが口を聞いたこともない、自分たちが蔑んできた女性が目を輝かせながら、「私は救い主メシアにお会いしたのかも知れない!」と大声で語りだしたのですから。人々は彼女の変化に驚き、そして彼女を変えたお方、主イエスに驚きました。イエス様を一目見ようと大勢の人たちが集まって来ました。そして多くの人々がイエス様の言葉を聞いて信じました。罪深い女と人々に蔑まれていたサマリアのこの女性は、こうしてイエス様の福音を延べ伝える人になったのでした。
 
私たちは、今日お読みした聖書のエピソードが、主イエスが女性に語りかけたたった一言のお願い「すみませんが、水を飲ませてくれませんか」から始まっていることに注目したいと思います。私はこの聖書の箇所を読むと、どうしても昔、教会で出会った一人の青年の話しを思い出さずにおれません。彼は学生時代のとある夏休み、自転車で北海道一周旅行に出かけたのです。夕方になると、その日泊めてもらう家を探します。皆さん、彼はどうやってその家を探したと思いますか?この家はどうかな?と目星をつけたら、彼はまず持っている水筒の水を全部捨て、そして「ごめんください、水を分けていただけませんか?」と尋ねるのです。出てきた人が親切そうな人だったら、水をもらった後に、「じつは僕、自転車で北海道一周旅行をしているのです。もしよかったら今晩一晩泊めていただけませんか」とお願いしました。でも出てきた人がこわそうな人だったら、水だけもらい、ありがとうございましたと言ってその家を立ち去ります。そしてまた別の家を探し、水筒の水をジャーと捨てて「ごめんください?」――彼はそうやって毎晩、泊まる家を探したというのです。女子学生の皆さんにはけっしてお勧めできない方法ですし、ホスピタリティに富んだ人が多い北海道ならではの話と思いますが、それでも私はこの話が大好きです。「水を下さいませんか?」という言葉は人と出会うきっかけをくれる万国共通の特効薬なのかも知れません。
 
イエス様も同じことをなさったのでした。主はサマリアの女性をご覧になり、彼女が五回の結婚に破れ、心の重荷を背負って生きていることをすぐに見て取られました。ですから主イエスは、彼女の身の上を言い当て、彼女の罪を指摘し、彼女に悔い改めを迫ることもできたのです。しかし主イエスはそうはなさらなかった。そうではなく、一人の旅人として、空腹と喉の渇きに疲れた一人の旅人として彼女の脇に座り込み、「すみませんが、水を飲ませてくれませんか?」――そう彼女に願い出たのです。
 
主は彼女と出会うために、一人の喉の渇いた旅人となってくださった。それは今日も何ら変わるところがありません。主イエスはけっして、私たちが訪ねてくるのをただ黙って待っておられるお方ではありません。疲れ果てた私たちの傍らに座り、「水を飲ませてくれませんか」と頭を下げてお願いしてくださるお方なのです。サマリアの女性が日々持ち運んでいた「水がめ」。そこに入っていた水は彼女にとって、命そのものでした。しかしこの「水がめ」は、同時に彼女の孤独で惨めな毎日を象徴する重い器でありました。彼女は主イエスと出会い、この「水がめ」を主イエスのもとに置き去りにしたまま、町に飛んで行きました。彼女は自分の重荷を主の前に置き去ったのです。私たちは今日の聖書から、「水を飲ませてくれませんか」と私たちにお尋ねくださる主イエスの声を聞き取りたいと思います。それは私たちと話をするきっかけを求めて発せられる、主からの声がけです。私たちが日々の生活で周囲から受け取る数々のお願いも、主が、彼ら彼女たちを通して「私」に求めておられるる「水」なのかも知れません。私たちは主に水をさしあげたいと思います。そして代わりに、主イエスから、けっして渇くことのない命の水をいただきたいと思います。

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