【大学礼拝説教】五千人の給食

2020年10月30日 大学礼拝
マタイによる福音書14:13-21

イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 
今日、お読みした聖書の冒頭に「イエスはこれを聞くと」とあります。一体、主イエスは何を聞いたのでしょうか。今日の聖書の少し前を読みますと、それは洗礼者ヨハネがヘロデ王によって斬首された、というニュースだったことが分かります。洗礼者ヨハネは主イエスの母マリアの遠い親戚で、主イエス自身、このヨハネから洗礼をお受けになったのでした。ヨハネは激しい気性の人で、ヘロデ王が自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを奪って自分の妻にしてしまったことを激しく非難し、これに怒ったヘロデ王がヨハネを処刑したのでした。
 
洗礼者ヨハネはとても人気の高い伝道者でした。しかしヨハネ自身は、自分はあくまでもこれからいらっしゃる主イエス・キリストの先駆けである、露払いである、と自分のことを謙遜し続けました。「あなたは何者か」と問われたとき、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答えました。ヨハネによる福音書1章23節にある言葉です。この言葉の意味を、嶋田学院長が何年か前の本学の礼拝で話しておられます。アウグスティヌスという初代教会の教父によれば、このヨハネの言葉は、「わたしは主イエス・キリストの言葉が人の心に入れるよう、言葉を音にのせる声である」という意味だというのです。「言葉を音にのせる声である。」私は趣味で合唱を歌いますが、「歌」というのはまさに言葉を声に乗せる芸術です。ヨハネは、自分は「声」であり、主イエスこそは「言葉」である――そう言ったのです。まるでヨハネとイエス様が二人で合唱しているように思えます。
 
さて、この洗礼者ヨハネから洗礼を受け、彼と同じ伝道の道を歩んでいた主イエスにとって、ヨハネの死はよほど大きなショックだったのでしょう、主イエスはヨハネが死んだというニュースを聞くと、人里離れた所にひとり退かれました。しかしイエス様の話を聞きたい、病を治していただきたいと、群衆たちはどこまでも主のあとを追いかけます。群衆の中には、病を抱え、社会のなかで底辺に追いやられた人々がたくさんいました。主イエスは彼らを見て「深く憐れ」まれました。ここで「深く憐れむ」と訳されているギリシャ語「スプランクニツォマイ」は、そのまま訳すると「はらわたする」とでも訳すべき言葉です。「はらわたが突き動かされる」という、悲しみと怒りが入り混じった深い共感を表す言葉です。「共感」という言葉を英語でcompassionと言いますが、それはまさに苦しみpassionをcom共にするという言葉です。パッションという言葉には「情熱」と「受難」という二つの意味がありますが、まさにそのような「はらわたが突き動かされる」ほどの激しい情動を主イエスは抱かれたのでした。イエス様は彼らの所へ行き、病人を癒されました。
 
日が暮れてきました。弟子たちがそばに来て言いました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」とても常識的な提案です。しかし主イエスは、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と弟子たちにお命じになりました。何という無理難題でしょうか。「大丈夫ですか?イエス様!」そう言いたくなります。
 
しかたなく弟子たちは答えます。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」 彼らはおそらく憮然とした表情でそう言ったに違いありません。しかし主イエスは、その言葉を待っておられたのでした。「それをここに持って来なさい」と言われると、群衆に草の上に座るようにお命じになりました。主はこの五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えました。パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはそのパンを群衆に配ります。すると、「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」というのです。「女と子供を別して」という数え方が当時の時代を背景にしていますが、それはともかく、これが「五千人の給食」と呼ばれる今日の聖書の記事です。先ほどご一緒に歌った讃美歌198番はこの出来事を歌ったものでした。
 
皆さんはこの話を信じますか?ほとんどの人が無理!と言うと思います。初めて聖書を読む人は、いえ、初めてでない人も、たいていこのような奇跡物語で躓いてしまうと思います。それは当然のことです。
 
では21世紀に生きる私たちは、このようなとうてい信じられない奇跡物語がやたら出てくる聖書という書物をどのように理解すればよいのでしょうか。一つ大切な事実があります。それは新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書のすべてに、この五千人の給食の話が出てくるということです。それどころかマタイによる福音書とマルコによる福音書には、この五千人以外に四千人の人たちが満腹になったという、とてもよく似た記事が別に出てきます。こちらは「四千人の給食」と呼ばれます。四千人にせよ、五千人にせよ、聖書は給食が大好きなようです。これだけすべての福音書に繰り返し出てくる記事も珍しいのです。四つあるすべての福音書記者たちが、少しずつ表現を変えながらこの給食記事を繰り返し書いているということは、その根っことなる事実が、何かやはり本当にあったと考えるべきだと思います。「不思議なこともあるものだ」と人々が驚き、これを代々語り継ぐような出来事が、具体的には分かりませんが、やはり何か本当にあったのだと思います。
 
今日私たちは、この奇蹟物語が、まったく何もないところから始まっているのではないということに注目したいと思います。五千人のお腹を空かせた人たちがいる中で、イエス様は「五つのパンと二匹の魚をここに持って来なさい」とお命じになりました。五千人の人たちがいるのです。一体そんなことに何の意味があるのでしょうか。しかし主イエスは、まさにこの五つのパンと二匹の魚を待っておられたのでした。イエス様の奇蹟は、このたった五個のパンと二匹の魚が主の前に差し出されたことによって、始まったのです。
 
皆さんのお手許に、短い一篇の英語の詩をお配りしました。今日はこの詩を読んで、この出来事を理解する手掛かりとしたいと思います。次のような詩です。

Love is like five loaves and two fish,
always too little
until you start giving it away.
愛は五つのパンと二匹の魚のよう。
いつも、足らないと思う・・・。
それを人に与え始めるまでは。

Love is like five loaves, この詩を書いた名もない詩人は、私たちが受ける愛をこのパンになぞらえています。そして、自分に注がれる“愛”はいつも足りない、always too little, と嘆いています。しかしそれは、until you start giving it away それを人に与え始めるまでのこと、というのです。
 
皆さんは英語のuntilという言葉をよく知っていることでしょう。「イツイツまで」という意味であることも、よく知っていることでしょう。しかし私は英語の中でuntilという言葉が出てくると、あっ、このあと何かが変わるな!と反射的に思います。たとえば、私は最近、次のようなタイトルの論文を見つけました。これもお手許の紙に書いておきました。

It’s All Fun and Games … Until Students Learn

これは、あるActive learning授業の実践記録です。この論文のタイトルを何と訳しましょうか。直訳すると、たとえば「授業は楽しいゲームばかり、学生たちが学ぶまでは」と訳したくなります。しかしそれは間違いです。なぜならこの論文の内容は、楽しいゲームばっかりやっているように思えた授業が、ある日、学生たちが「これってひょっとしてただ楽しいだけじゃなくて、じつはすっごく大事な事教えてくれてない?」って気付くようになるという、そんな授業の実践記録だからです。It’s All Fun and Games … Until Students Learnのタイトルに出てくるUntil Students Learnはけっして学生たちが学ぶまでは、という意味ではなく、楽しくゲームをやっていたら、ある時、学生たちが学んでいることに気付いてくれるように変わる!という意味なのです。Untilは何かが変わることを示す接続詞なのです。ですからこの英語の詩

Love is like five loaves and two fish,
always too little
until you start giving it away.

は次のように訳したいと思います。

愛は五つのパンと二匹の魚のよう。
いつも、足らないと思う・・・。
でもそれを人に与え始めたら、何かが変わる。

ずっと手に握りしめてきたわずかのパン。これじゃ足りない、足りないと思って握りしめてきたパン。でも、もしそのパンを人に配り始めたら、何かが変わり始める!ずっと待っていた友だちからの優しい言葉、私も優しい言葉、少しは持ってるけれど、でもこれはぎゅっと握りしめて誰にもあげない!そう思っていませんか?そんなあなたにイエス様は、「その言葉、誰かにあげてみない?」っておっしゃいます。「だって、私はあなたのこと、大好きだから!」っておっしゃいます。「私はあなたの悲しみが、自分のはらわたが痛むように悲しいよ!」、そうおっしゃいます。
 
その言葉を信じて、もしあなたがちょっとだけ優しい言葉を周りの人に差し出したら、そしたら、きっと何かが変わるのです。“愛”という名前のパンは、間違いなく増えるのです。私は物理学者です。物理学の基本は、いくつかの基本的な量、たとえばエネルギー、運動量、角運動量、質量――こういったものの総和は決して変わらない、減りもしなければ、増えもしない、そういうものです。専門用語で保存則といいます。皆さんはエネルギー保存則という言葉を聞いたことがあるでしょう。しかし、愛は違うのです。愛は増えるのです。そして最後には籠にあまるほどになるのです。これが今から二千年前のマタイさんやマルコさんやルカさんやヨハネさんが本当に見た出来事なのでした。聖書はこのように私のこととして読む時に、がぜん面白い本になってきます。もっと聖書のことを知りたい人は、ぜひ教会に行くことをお勧めします。