【備忘録 思索の扉】第四回 魚釣りと外国語学習

最近ふと、外国語を学ぶことを、魚と人間の関係になぞらえると、イメージが明確になることに気づきました。

私たち人間にとって、魚とのコンタクトの種類は大きく二種類だと思います。釣るか、眺めるかです。

まず、まったく知らない外国語を見聞きすることは、水の上から魚を眺めることに似ています。外国語の音は聞こえても、外国語の字面が目に入っても、私たちはその意味を実感をもって理解することはできません。水の中の魚の姿をとらえることができても、ウロコの色や形が見えても、それを素手で捉えようとしても魚はするりと逃げてしまうことでしょう。

しかし、その魚が美味しそうだったり、形や色が美しかったりすれば、私たちはそれを手に入れたいと願います。そこで、釣竿や網などの道具を手に魚を手に入れようと思いつきます。そして、道具の使い方を習います。ちょうど、教科書や辞書を買って、先生を探して師事するのに似ています。

少しずつ釣竿を握るのに慣れて、いよいよ魚のほうへと疑似餌を投げます。魚はすいっと疑似餌に近づき、つんつんとつついたり、かぶりつく素振りを見せたりします。疑似餌の周りを回る魚の泳ぎ方や大きさが、はっきりと見えます。釣れそうな気がしてきます。このあたりはさしずめ、外国語を恐る恐る発音してみたり、見よう見まねで帳面に書き出してみる段階を思わせます。

しかし、魚はなかなか餌に食いついてはくれません。釣竿を振り出すタイミングや、振り出す先はどこがいいのか、あれこれ考えながら試行錯誤をしていると、ふとした瞬間、あ、かかった! おおお! ちょうど、正しい発音を、教室で教員に褒められたり、訳読の試験でよい成績が取れたり。アドレナリンが湧き出す、わくわくするような瞬間です。

しかし、本当に難しいのはここから先です。かかった魚を本当に釣り上げることができるのか。一度かかった魚はふと逃げてしまったり、かかったと思って釣り上げたら大きなゴミだったり、逃げ惑う魚に引きずられて釣竿を落としてしまったり・・・。スリルとストレス、期待と絶望が交錯する、持久戦、心理戦です。こうしたことは、教室で習った単語や表現を、実際にその言語の話者に対して投げかけてみても素通りされたり、きょとんとされたり、言葉が出てこずに焦ったりがっかりするときの感覚に、よく似ています。魚を本当に自分で釣ることができるのか。私の学んでいる言葉で、見知らぬ誰かと出会うことが、本当にできるのか。

そして、幾度もの失敗のあと、ふと、自分で魚を釣れる瞬間が、やってきます。

自分が学んだ言葉が、その言葉の話者に届き、相手から言葉が返される瞬間の感動は、言語学習の醍醐味です。多くの言語学習者が、その外国語がはじめて本当に相手に通じた瞬間を、一生ものの出来事として大切に心にしまっているものです。小さい頃から親に連れられて行った釣り堀で、初めて自分で釣竿を借りた日のことを、そして、初めて魚を自力で釣り上げ、それを生け簀に収めた瞬間のことを、私もはっきり覚えています。その魚は、小さかったのに、かかった瞬間から暴れまわりました。小学生だった私は、あやうく釣り堀に引きずり込まれそうになりながら、周囲の大人たちに大慌てで助け舟を出されながら、それでも自分であの小さな魚を釣り上げたのでした。

ただ、そのあと、私は釣りを続けなかったの違いありません。だって今、私は釣りをしないので。釣り上げた魚を見て満足したのでしょうか。それとも、釣り上げることができたのがこの一度きりで、そのあともう少し頑張ってみたけれども釣れないやと、諦めてしまったのでしょうか。言葉が「通じた!」という経験を一度したあとで、そこで満足する人もいます。もっともっとこの経験を重ねていきたいと思う人もいます。この違いは、どこにあるのかなあ、といつも考えています。

さて、釣りが、その言語の話者になることの比喩だとしたら、水族館に行く楽しみは、外国語で書かれたものの翻訳されたものを楽しむことに、少し似ているかもしれません。翻訳された物語は、異次元、異文化の香りを鮮やかにイメージ化して、私たちに届けます。大きな水槽で魚を見る楽しみを可能にしているのは、水族館という、数え切れない人々の力と資金によって形をなす構築物です。翻訳家の仕事とは、そうした巨大な構築物をわが身一つで引き受ける、まるで怪物のような、神がかっているとさえ言えそうな、大きな仕事と言えるでしょう。釣りは大好きだけれども、水族館にはさして興味がない人も、その逆の人も、いるかもしれません。どちらも大好きだと言う人もいるかもしれません。いずれにせよ、魚釣りと、水族館にいくことは、魚という他者に関わる、二つのまったく異なる方法です。ただし、水族館を作る人々の中に、釣りの名手は必ずいることでしょう。

ところで。

魚は広大な自然を泳ぐものであって、私たちが魚と出会う機会(つまり釣りまたは水族館)だけが、魚の人生(魚生?)すべてではありません。

淡水に住む種類、海水に住む種類、川を上る種類、大海を旅する種類、深海にとどまる種類、水面で群れを成す種類。魚の種類によって、その魚が生きて来た環境の広がりは、水がある限りにおいて無限大です。この有限なる無限に思いをはせると、魚との関係は、釣る(食べる)、眺めるに加えて、想像する、というのも含められそうな気がしてきました。そう考えると水族館は、魚を見つめ、魚の世界を想像させてくれる場所のひとつだ、とも言えそうです。また、魚釣りを続けたいと思い続けるかどうかについても、この想像する、ということが、鍵を握っていそうです。

ところで、私は釣りをしたことがほとんどないので、このエッセイには一部フィクションが含まれております。したがって、ディテールが少し頓珍漢かもしれませんが、ご容赦くださいますように。なお、フィクションは、想像する力の延長にあるものであるということも、最後に、申し添えておきます。

間瀬幸江(フランス文化論