忙しさに追われてせわしなく過ごしている時、ちょっとした音を耳にして、不意に心が静かになる-そんなこともあるのではないでしょうか。たとえば、外から聞こえて来る鳥のさえずりや夜道に響く虫の声、雨だれの音などが、突然心にしみ入ることがあります。地域によっては、夕暮れ時に鳴らされる寺の鐘の音を聞いて、時間の流れがゆるやかになったように感じることもあるかも知れません。
寺が鐘をつくのは、「衆生の迷夢をさまし、諸々の悪行を離れて、仏道に帰依させる」のが本来の目的だそうです(坪井良平『日本の梵鐘』、26頁)。つまり、聞く人に向かって「人として、なにか大切なことを忘れて突っ走っているのではないか。立ち止まりなさい」と呼びかけるものなのですね。道理で鐘の音を聞くと心のテンポがゆっくりになるわけです。
鐘の音は、ヨーロッパでは重要な「サウンドスケープ(音の風景)」になっています。歴史家の阿部謹也はドイツで研究した際、日曜日の朝に町中でいっせいに鳴り渡る教会の鐘の音を聞いて、「初めてヨーロッパへ来たという実感をもった」そうです(阿部謹也『甦える中世ヨーロッパ』、270頁)。キリスト教世界を象徴する音と言えますが、キリスト教では鐘の音にどのような意味合いをこめているのでしょうか。17世紀ドイツのルター派牧師コンラート・ディートリッヒ(1575年-1639年)が著した『鐘の説教』(1625年)という本によると、教会の鐘には時報や非常時の警鐘などの機能のほかに、①人々を礼拝や祈りに招く、②キリスト者として信仰・希望・愛をもって生きるように促す、③(葬儀の際にも鳴らされることから)自らがいずれ死すべき身であることを思い出させる、といった機能がありました。いずれも「立ち止まりなさい」と呼びかける働きであり、これは日本の梵鐘と似ています。
このように見ると、日本でもヨーロッパでも鐘は人々に向かって、日常の生活や思い煩いに流されないように注意し、自分自身を取り戻すように呼びかける役目を果たして来たことが分かります。鐘の音が心を潤すように感じられるのは、業績やステータス、他者の評価といったものが私たちを作っているのではなく、人間はもっと大きなものとのつながりの中で生きているということを思い出させてくれるからでしょう。鐘だけでなく、自然界が作り出すさまざまな音も、私たちが一人で生きているのではないことを感じさせてくれます。
機械化された騒音に遮られて、最近の社会ではこうした静かな音を聞き取ることが年々難しくなって来ています。現代人のストレスの要因には、音を通してこうした目に見えないつながりを感じ取ることができなくなっている点も大きいのではないでしょうか。人間らしい心を取り戻すためにも、音の世界の意義を見直したいです。(栗原健 キリスト教学)