記憶の場に立って
東北地方は戊辰戦争の内乱で主要な戦場となりました。薩長らの新政府軍の攻撃にさらされた会津藩ばかりではありません。奥羽列藩同盟が崩れるなかで庄内藩・仙台藩・盛岡藩に攻め込まれた秋田藩なども戦火にまみれました。戊辰戦争は鳥羽伏見の戦いに始って、江戸開城でほぼ決着がついたようにみられがちですが、戦争としてはむしろその後のほうが激しい戦闘となっています。東北地方は薩長らの新政府軍の攻撃に加えて、その内部も同盟・離反によって「官軍」と「賊軍」とに引き裂かれ、東北の藩同士で戦うという不幸な現実を強いられることになりました。その点では、東北地方は戊辰戦争の最大の受難者であったというべきでありましょう。
このように記したものの、数年前までは維新史・戊辰戦争にほとんど立ち入らず、近世史の枠内で研究してきました。錯綜する政局・戦局を跡付けていくのは面倒に思えましたし、それ以上に薩長中心の維新史観が好きになれず、かといってそれと裏腹の東北人の敗者意識や、藩帰属意識の強調にもなじめなかったからです。観光地となっている戊辰戦争の史跡は別にしても、戦場となった地や、戦死者の墓碑などを廻って歩くなどということはありませんでした。たまたま案内板があってもわざわざそこまで行ってみようという気持ちが起こらないできたのです。
戊辰戦争が傍観でなくなったのは、近世史の側から箱館戦争について書いてみてはと勧められ、これまで研究対象としてきた「蝦夷地」の歴史の終わりを見届けてみようとそれを引き受けたからでした。東日本大震災より前のことでしたが、本腰を入れて取り掛かったのは大震災から3年後のことです。関連史料を集めて読んでいるうちに、維新内乱期を覆う狂気、戦争で焼かれ避難する住民、戦死者・負傷者の扱いなど、戦争のリアルがいやでも目に入ってきます。心理的には飢饉史に関わってきたことや、大震災の影響があったのもしれません。その反面、榎本旧幕軍の「蝦夷共和国」などということはさして重要なことのようには思えなくなりました。ただ、実際には全体の流れ、輪郭を示さなくてはなりませんので、取り上げなかったわけではありません。
函館の地は史料集めや研究会でよく行きましたし、レンタカーで道南(松前・江差や内浦湾)の史跡を巡ったことも何度かあります。また、人間文化学科のゼミ生を連れて毎年のように歩き、ときには松前まで足を延ばしました。このため地理感覚はあると思っていましたが、書き始めてみますと、榎本旧幕府軍が最初に新政府軍と戦闘を交えた峠下から大野・七重辺の土地の様子が浮かんできませんした。そこで現地に行き、はじめて戊辰戦争だけを意識して戦跡や墓碑を巡り歩くことになりました。新幹線函館北斗駅に近いあたりです。こうして約一年かけて『五稜郭の戦い』(吉川弘文館、2015年)を書くことができました。
その勢いというのでしょうか、東北地方の戊辰戦争についても無関心でいられなくなり、史料を集め、主戦地を歩き始めました。去年(2016年)の3月に大館・大仙・横手辺、今年の3月も白河、鶴岡などを訪ねました。戦跡巡りといっても、寺院の境内や墓地などにある戦死者の墓碑・慰霊碑が中心になります。墓碑に刻まれた藩名などから、東北の藩だけでなく、新政府軍として遠く西日本・九州の藩から派遣されて死んだ人たちのものが多くありました。「官軍」として褒賞にあずかったとしても、異郷の地で帰らぬ人となったのは、その後の近代の戦争を思い起こさせ、いままたそれが現実化していることに胸がいたみます。箱館戦争でもそうでしたが、「官軍」「賊軍」の区別なく、農兵、夫卒として徴発された民衆たちの死も少なくなかったのです。戦いを決めたリーダーたちにはそれぞれに大義、体面というものがあり、そのぶつかりあいによる犠牲のうえに明治国家が築かれたのでした。別な道がなかったわけではありません。
このまま戊辰戦争の研究に進んでいったらよいものか、他のテーマも捨てがたくまだわかりません。もうじき戊辰戦争150年がやってきます。さまざまなイベント、シンポジウムが催されることでしょう。どのような維新語り、戦争語りがなされるのか、これからの日本の進むべき道ともかかわりますので、遣り過ごさないでみていこうと思います。
菊池勇夫(日本近世史)