【備忘録 思索の扉】第一回「初期キリスト教への文献学的案内(1)」

無題11945年発見のナグ・ハマディ文書に収められているトマス福音書(NHC II, 2)は、初期キリスト教の思想的多様性を知る上で極めて価値の高い資料です。その文学類型は語録集(ロゴイ)です。合計114のイエス語録から成るトマス福音書は、元々ギリシア語で書き記され、二世紀半ば頃コプト語に翻訳されたと推定されています。新約聖書には含まれていませんが、これもまた重要な古代キリスト教文書です。語録42に「過ぎ去り行く者であれ」(右画像の下から6行目)という印象深い言葉があります。画像はファクシミリ版ナグ・ハマディ文書Ⅱ(Leiden: Brill, 1974, p. 50)から取り込んだものです。これは伝存するイエスの言葉の中では最も短く、この地上で見る影もなく朽ち果てていく肉体的存在としての人間のあり方―この世的な事柄を顧みないこと―を美しく言い表しており、時空を超えて共感できる言葉です。これに類する言葉は、表現形式は異なるものの、ユダヤ教資料、マニ教資料、ストア派哲学者の諸作品、預言者ムハマンドの言行録『ハディース』を含むイスラーム教資料、ムガール帝国第三代「義人」アクバル王ゆかりのファテプリ・シークリーの城門アーチなどにも見出されます。

定住せずに放浪する「過ぎ去り行く者」という言い回しには、パレスチナの鄙びた農漁村を中心に巡回し、上下関係を超えて人々との濃密な交流にのめり込んだ霊能者イエスのエートスが示唆されています。イエスの死後、弟子たちや他の信者たちは当初、そういうイエスへの鮮明な記憶を通して突き動かされ、それぞれのイエス体験を抱きしめて生きていました。イエス体験が彼ら・彼女たちの生き方の生活実践となっていたのです。

そういうイエス体験がモザイク状に深く織り込まれている語録42を収録したトマス福音書の起源は、文化的水準の高いシリアです。シリアのキリスト教徒たちの間で当時読まれていたのは、このトマス福音書であり、同じく二世紀成立のタティアノス作『調和福音書(ディアテッサローン)』です。トラヤヌス帝の治世(98-117年在位)下でローマに従属し、256年にササン朝ペルシアのシャープール一世に占領された古代都市ドゥーラ・エウローポス において、1933年5月3日、羊皮紙に書かれた後者の15行分のギリシア語断片(9.5×10.5 cm.)が発見されました。画像は、C. H. Kraeling, A Greek Fragment of 無題Tatian’s Diatessaron from Dura (London: Christophers, 1935, p. 38)に掲載されているドゥーラ羊皮紙写本24(イェール大学所蔵)の一部です。14行分までは解読可能です。内容は、イエスの十字架上での死を遠くから見守っていた女たち、遺体の引き取りを申し出た有力者にまつわる別個の異なる四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の関連場面を要約的につなぎ合わせています。これが元来ギリシア語で書かれたのか、シリア語からギリシア語に訳されたのか、ラテン語からギリシア語に訳されたのかは不明です。いずれにせよ、四福音書間の不一致を除去して、釣り合いのとれたものにする類のものが求められ、広範囲に長期間読まれていたのです。また、キリスト教が展開された古代後期の地中海世界では、使用されていたキリスト教文書も地域によって異なり、信仰表現も多種多様でした。

最後に、初期キリスト教文献の85%は失われて現存しないという指摘もあります。残存するわずか15%の文書資料に基づいて「キリスト教」を定義するのは方法論的に公平性を欠きます。「キリスト教」(クリスティアニスモス)という用語でさえ二世紀初頭の文献で初めて確認できます。「キリスト教徒」(クリスティアーノス)という言い方が用いられるのは一世紀後半になってからです。文献学的に言えば、「キリスト教」と縁もゆかりもある人々の全体が「キリスト教」という宗教を様々な形に形成してきたと考えるべきです。

新免貢(初期キリスト教思想)