昆虫は、幼虫から蛹になったあと、体の中身を一度どろどろにしてから、かたい殻の内側で、成虫の体を形づくるのだそうです。これを知ってから、3月の卒業式から4月の入学式までのあわいの時期の過ごし方の理想形として、昆虫の蛹をイメージするようになりました。卒業生を見送りつつ過ごした年月を振り返り、何か根源的な問いを発し、それをためつすがめつ眺めてから、新年度を迎えられたらと。毎年取り紛れてなかなかそうもいかなかったのですが、この春は、その理想に近い形でひとつの問いに出会ったように思います。それは「受けとめる力」「聞く力」の価値をめぐる問いです。
思えば、学生のころフランス語を学び始め、かかわり始めてからずっと、「発信力」や「話す力」を育んできました。フランス語文化圏では、自分の考えをことばで表明することと、社会のなかで自分を周囲に肯定させることは地続きです。このことは、言い方、伝え方を考えて発語をすることが求められる日本語日本文化的な「こわばり」に閉塞感を抱いていた自分には、救いであり活路でした。学習者としてそう思っている間は、フランス語をすいすいと、まるで砂漠が水を吸い込むかのように、からだに取り込んでいけたものです。そして、この「発信力」「話す力」は、人の能力をはかる実効性あるものさしとして社会で認知されているように思われます。そうしたものさしをそれほど恐れない生き方を私ができているとしたらそれは、フランス語や文化を学んだからかもしれません。
他方、日本で、教場やその他説明会や講演会などで、「質問やコメントを」と声をかけられるとき、私たちは、特に言うことがない場合は焦りますし、言いたいことがある場合も、手を挙げる直前の緊張感で体がこわばります。会場は数秒の沈黙に支配されます。発語をめぐる、あの恥ずかしいような苦しいような気持ちはいったい、何なのでしょうか。あれは自らの「発信力」が所詮はめっきに過ぎないことが暴露される瞬間でしかないのでしょうか。私が今、「そうであってほしい」と願う仮説は次の通りです。私たちは「質問はありますか」と言われる直前まで、受動的とはおよそ異なる構えでもって、相手の話に耳を傾けている。この「聞く」ということそれ自体が、とても複雑でとても重いものなのではないか。相手に質問をする、たずねる、批判するというアクションに瞬時に転じることができないくらいに、「聞く」という行為を全身で引き受けているのではないか。「聞く」と「話す」の間にはそれこそ、幼虫の這いずりと成虫の羽ばたきと同じくらいの違いがあるのではないだろうか。そして、二つの態のあわいにあって、蛹のように一見押し黙って見える私たちの身体は、その内側でふつふつとたぎる何かを抱え込んでいるのではないのか。
そうだとしたら、「聞く」という行為を根本的に肯定するような言説は、いったいどうしてこんなに少ないのでしょう。
まだとうてい滑らかなことばになりそうにないこのことを、蛹の中の虫のような心持で、その心持を自覚的に肯定しながら、これから少しずつ考えていこうと思っています。
(間瀬幸江 フランス語・フランス文化論)