話は,これまでの2回とは全く別の文脈になりますが,
数年前のとある日,ある人から次のような質問を受けました。
「外国語ができるというのは,どういうことを言うのでしょうか?」
その人は,何年もフランス語を勉強しているが,全く物になっている気がしないと言うのです。
そのときは,私はそのような疑問を持ったことがなく,すぐに答えられませんでした。
というのは,一般的にすぐに思い浮かぶのは,語彙力,文法力,発音,といったところでしょうが,
しかし,その人も何年も勉強しているからには,そういうことはある程度できているはずです。
きっと何かしら違う要因があるのではないか,と咄嗟に思い,答えられなかったのです。
数日後,次のような答えが妥当なのではないかと思いました。
その言語を,感情を乗せて話す(使う)ことができるということ。
たとえ短い簡単な文でも,それをただ音あるいは文字として読んでいるだけなのと,
感情を乗せて表現しているのとでは,雲泥の差があるのではないか,ということです。
このことは,いまだに私の外国語学習や教育での信念になっている発見でした。
前回までの学習法で,フレーズの暗記では使い物にならないと言いました。
リスニングなどの受動的な学習も,大して効果がないと言いました。
そして,自分で考える(思い出す)ことが,最も効率的だと結論づけました。
しかし,そうした「方法」と同時に,「感情を乗せる」ということも,できるようになる必要があるのです。
一方で,次のような疑問も湧いてきました。
「感情を乗せる」ということと「その言語が身についている」ということは,どちらが先なのか。
結局,身についたから感情を乗せられるだけであって,
身についていないうちは,感情も乗せられないのではないだろうか,と。
この疑問については,私は少なくとも自分の英語学習の経験で,クリアできたように思います。
即ち,発語するときに感情を乗せるように意識すれば,だんだん乗せられるようになってくるようなのです。
たとえ目の前に話す相手がいなくても,何かしら「意味」のわかる言葉を自分が発し,
面倒でも,その意味を感じつつ,一語一語丁寧に発音していれば,
音と意味が結びついて,感情を乗せられるようになってくるのです。
意味を感じ,感情を乗せながら文章を作る。これができれば,その言語は身についたと言えるでしょう。
さて,ここで大きな問題が一つあります。
「感情を乗せる」というのは,あくまで「内的」な問題ですから,表面的に確かめようがない,ということです。
逆に言うと,表面的にできているように見せようとしている限り,
感情を乗せようという意識がなかなか起こらない,ということです。
この確かめようのなさは,私自身の学習はともかく,教育においてはかなりのネックになりますし,
もし,「資格」や「格好良さ」が英語ブームの原動力だとすれば,未来はちょっと暗いものかもしれません。
何かを本当に身につけようとするとき,その大事な核心部分は,他人の目には見えないもののようです。
これはおそらく語学に限ったことではないでしょう。
ここまで私が話してきたことをひと通りできるようになる,ということはつまり,
基本的な文章をその言語で作り出し,そこに感情を乗せて表現できる,ということです。
私はこのことを,その言語の「回路ができている状態」と言っているのですが,
これはまさにその言語を(レベルはともかく)自分で使えていることに他ならないのではないでしょうか。
それでは,次なるステップはどんなことが考えられるか,また次回にお話ししたいと思います。
(小羽田誠治 中国語・東洋史学)