【備忘録 思索の扉】 第十一回 私の外国語学習法(その3)

話は,これまでの2回とは全く別の文脈になりますが,
数年前のとある日,ある人から次のような質問を受けました。
「外国語ができるというのは,どういうことを言うのでしょうか?」
その人は,何年もフランス語を勉強しているが,全く物になっている気がしないと言うのです。
そのときは,私はそのような疑問を持ったことがなく,すぐに答えられませんでした。
というのは,一般的にすぐに思い浮かぶのは,語彙力,文法力,発音,といったところでしょうが,
しかし,その人も何年も勉強しているからには,そういうことはある程度できているはずです。
きっと何かしら違う要因があるのではないか,と咄嗟に思い,答えられなかったのです。
数日後,次のような答えが妥当なのではないかと思いました。

その言語を,感情を乗せて話す(使う)ことができるということ。

たとえ短い簡単な文でも,それをただ音あるいは文字として読んでいるだけなのと,
感情を乗せて表現しているのとでは,雲泥の差があるのではないか,ということです。
このことは,いまだに私の外国語学習や教育での信念になっている発見でした。

前回までの学習法で,フレーズの暗記では使い物にならないと言いました。
リスニングなどの受動的な学習も,大して効果がないと言いました。
そして,自分で考える(思い出す)ことが,最も効率的だと結論づけました。
しかし,そうした「方法」と同時に,「感情を乗せる」ということも,できるようになる必要があるのです。

一方で,次のような疑問も湧いてきました。
「感情を乗せる」ということと「その言語が身についている」ということは,どちらが先なのか。
結局,身についたから感情を乗せられるだけであって,
身についていないうちは,感情も乗せられないのではないだろうか,と。

この疑問については,私は少なくとも自分の英語学習の経験で,クリアできたように思います。
即ち,発語するときに感情を乗せるように意識すれば,だんだん乗せられるようになってくるようなのです。
たとえ目の前に話す相手がいなくても,何かしら「意味」のわかる言葉を自分が発し,
面倒でも,その意味を感じつつ,一語一語丁寧に発音していれば,
音と意味が結びついて,感情を乗せられるようになってくるのです。
意味を感じ,感情を乗せながら文章を作る。これができれば,その言語は身についたと言えるでしょう。

さて,ここで大きな問題が一つあります。
「感情を乗せる」というのは,あくまで「内的」な問題ですから,表面的に確かめようがない,ということです。
逆に言うと,表面的にできているように見せようとしている限り,
感情を乗せようという意識がなかなか起こらない,ということです。
この確かめようのなさは,私自身の学習はともかく,教育においてはかなりのネックになりますし,
もし,「資格」や「格好良さ」が英語ブームの原動力だとすれば,未来はちょっと暗いものかもしれません。

何かを本当に身につけようとするとき,その大事な核心部分は,他人の目には見えないもののようです。
これはおそらく語学に限ったことではないでしょう。

ここまで私が話してきたことをひと通りできるようになる,ということはつまり,
基本的な文章をその言語で作り出し,そこに感情を乗せて表現できる,ということです。
私はこのことを,その言語の「回路ができている状態」と言っているのですが,
これはまさにその言語を(レベルはともかく)自分で使えていることに他ならないのではないでしょうか。
それでは,次なるステップはどんなことが考えられるか,また次回にお話ししたいと思います。

小羽田誠治 中国語・東洋史学)