【備忘録 思索の扉】 第三回「本当に好きなもの」

皆さんにとって,「本当に好きなもの」とは何でしょうか?

今回は「好き」であるということについて,お話ししたいと思います。

私は,色々と好きなものの多い人間ですが,その筆頭にあがるのが「囲碁」です。

そのことは,10年近く前のリレーエッセイでも書きましたので,興味があれば,こちらをご覧ください。

そして,今年の3月,その囲碁の世界に衝撃が走りました。

世界最強の一人と言われた韓国のあるプロ棋士が,コンピューターに負けたのです。

5戦して1勝4敗,全敗こそ免れたものの,敗北感は決定的でした。

囲碁は,数あるボードゲームの中でも,最も変化が多いことで知られ,

コンピューターが人間を超えるのは,まだ10年はかかると言われていたのですが,

それが今回,いともあっさりと超えられてしまったのです。

そのプログラムを作ったのは,私たちが日ごろ検索でお世話になっている,Googleでした。

Googleが,囲碁に関しては素人だったのも,衝撃を強めているかと思います。

このことは,どんな意味があるのでしょうか?

歴史的意味,社会的意味など,すでに多くの関係者が考察していますが,

今回のテーマの「好き」に関して言うと,私が思ったのは次のようなことです。

コンピューターが人間を超えて,残念だとか屈辱だとか言う人がいます。

私も,超えられる前は,超えられたらそんな気がするかもしれない,と思っていました。

実際,対戦中は人間側が勝つことを期待する気持ちもありました。

それでも,いざコンピューターの勝利を見せつけられたとき,逆に言うと,人間の及ばなさを感じたとき,

それはそれで,貴重な経験をしたように思えたのです。

人間はまだまだ強くなれるし,その可能性をコンピューターが示してくれた。そんな感じです。

そう思ったとき,私は「囲碁」というものが本当に好きで,

「人間」とか「コンピューター」とかいった「種族」の違いは,問題にならないのだと気づきました。

私にとって,囲碁のレベルが上がりさえすれば,「人間様が一番」である必要は,全くないわけです。

どうやら,このような感覚は多くのプロの囲碁棋士も持っているようです。

そのプログラムを「先生」と呼び,それを越えたいという声がたくさん聞こえてきます。

逆に,人間が負けて屈辱だという人は,「囲碁」よりも「人間の功績」が好きなのかもしれません。

あるいは,「人間としてのプライド」ということなのかもしれません。

そして,囲碁の中身をよくわからず,ニュースとしてしか情報を知らない人ほど,

このような感覚を持つ傾向があるようです。

「本当に好きなもの」の前では,人は「功績」や「プライド」といったものとは無関係になれる

のだと思います。

逆に言うと,「功績」とか「プライド」とかが気になるとしたら,

それは「本当に好きなもの」なのではなくて,「人に見せるためのもの」なのではないでしょうか。

他人ではなく自分にとって大事な,本当に好きなものを見つけられたら,

人はもっと幸せに,強く穏やかに生きられるかもしれない,そんな気がしています。

小羽田誠治 中国語・東洋史学