【備忘録 思索の扉】 第二〇回 倒木更新

thumbnail_IMG_3023宮城学院女子大学には「神を畏れ、隣人を愛する」というスクールモットーがあります。神を礼拝すること、そして他者へ奉仕することが言われています。この言葉には、何か今の時代に合わない、損な生き方を求められているように感じる人もいらっしゃるかもしれません。と言いますのも、私自身がキリスト教の大学で学んでいた学生時代、何度となくそのような気持ちを抱いたからです。現代は自己開発・自己分析・能力発見が盛んに言われます。いかにして自分のスキルを高め、自分に価値を与えるか、言い換えれば自分の命を如何に有効に、自分のために使うことができるかと考える必要が盛んに説かれます。

もちろん自分を成長させることは大事なことですが、あまりにもそればかりが強調されると、一度限りの自分の人生を他人のため、神のために用いるなどもったいない。自分の楽しみ、自分の益のために用いなければ損であるということにもなりかねません。

キリスト教に基づく考え方は、そのような現代人、自分ということに集中しすぎている私たちの考え方を問い直し、問いかけてきます。人生を損得勘定で余りに打算的に捉えてはいないか。損得で物事を考えることが、最善の価値判断になり得るのか。自己中心的でともすれば利己的になりがちな私たちの発想に根本的転換を迫ってくる面があります。

自分の命を他者のために使うのが惜しいと感じる私たち、それは現代人の感覚において命が自分ひとりで自己完結できると思っているからではないか。そのようなことを考えていたとき「倒木更新」という言葉と出会いました。「倒木更新」は寒い北海道のような地域で、エゾマツなどの樹木に見られる現象です。成長したエゾマツの木は、他の多くの植物がするように種を飛ばし、新しい世代の命を生み出そうとします。しかしエゾマツの生育する環境は冬になると大地そのものが凍りつき、その上に数メートルにわたって雪が積もる、寒さのとりわけ厳しい地域なのです。

そのような環境で小さな種がむき出しのまま地上に落ちても、凍てついてその小さな命は凍え死んでしまいます。では種はどうやって芽吹くのでしょうか。「エゾマツの種は、エゾマツの木の上で育つ」と言われるそうです。そこで言われるエゾマツの木とは、高くそびえ立っている木ではありません。その木は既にまっすぐは立っておらず、倒れこんでしまっている倒木。既に所々朽ち始めていて、枯れ木のようにさえ見える木。しかしこのエゾマツの倒木が、大事な役目を果たします。小さなエゾマツの種、そこに宿る小さな命、それがエゾマツの倒木の上に落ちます。倒木は防寒着のようにして種を厳しい寒さから守ります。それだけではありません。エゾマツの種は、倒木を腐葉土代わりにして、そこに根を張り、その栄養を吸収して成長していく。それによって北海道の厳しい寒さをものともしないエゾマツの木として成長します。エゾマツの種がエゾマツの倒木の上で育つ、この不思議な現象が「倒木更新」と呼ばれます。

もし種が、この命の結びつきを忘れて、倒木の上で窮屈な思いをするより、広々とした大地の上で生きていきたいと主張し、そうしたらどうなるか。結果は明らかでしょう。

「倒木更新」この神秘的な自然現象は私たちに、自分一人だけで完結している命などないのだという大切な真理を示しています。私たちが今生きている人生としての命は、さまざまに命を受け継いでこそ存在しています。そしてキリスト教の基盤にある『聖書』の中心的主題もまた命の受け渡しの出来事です。『聖書』は木に架けられ倒れた一人の方について語ります。イエス・キリストが私たちに命を与えるため、自身を十字架で死に渡してくださった。自分の命を差し出すまでの愛をもって、私たちを新しい命へ、新しい生き方へ招いてくださった。イエス・キリストという倒木の上に、種として置かれた私たちであるからこそ、そこに根を張って成長し、命を吸収して、人生におけるどんなに厳しく冷たい風、雪や嵐にも耐えることの出来る力が与えられていく。そこに私たちの命の根源との結びつきがある。『聖書』には、私たちが経験する様々な困難に対する、慰め・勇気・励まし・望みの言葉が溢れています。

イエス・thumbnail_IMG_3022キリストは私たちに命を与えるという最大の愛の姿、隣人愛を実践されました。このことを知り、この方の命に私たちの命が根ざしていることを思う時、私たちの人生は自分だけの命ではなく、愛をもって隣人に奉仕する命の使い方としての使命を生きるものになります。『聖書』に「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(コリントの信徒への手紙二5章17節)と記されています。聖書は「神を畏れ、隣人を愛する」ことを思索し、それをもって「人類の福祉と世界の平和に貢献する」(宮城学院建学の精神)学びと人生への道を私たちに語りかけています。

(松本周 キリスト教学・宗教学)