シンポジウム「声を聴く、声をしるす」が開催されます(その1)

「声を聴く 声をしるす」仮チラシ最終2019年1月11日、シンポジウム「声を聴く、声をしるす~21世紀教養教育考」を開催します。この企画は、宮城学院女子大学一般教育課程の外国語教育に関わる教員による研究グループ「ことばを聴く ことばを育む―複言語・複文化主義と教養教育―」の主導により実現するものです。

「教養教育」の形骸化は20世紀後半からすでに多くの議論を呼んできましたが、宮城学院女子大学の一般教育課程は、一貫してこの「教養」とは何か、という問いに取り組んできました。21世紀に入り20年がたち、この議論を改めて今の言葉で言語化することが必要だと思います。1月11日のシンポジウムでは、この言語化の一つの切り口として、「聴く」という姿勢とは何かについて、議論を深めます。

そこで、教育において、研究において、「聴く」姿勢を貫いてきた、3人のパネリストの皆さんにご登壇いただきます。

シンポジウム関連情報として、パネリストの方々の発表要旨を順次、ご紹介していきます。今日は、日本近世史の菊池勇夫先生の要旨をご紹介します。

シンポジウムチラシはこちらからダウンロードしてください。

 

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記録を読む、声を聴く―菅江真澄日記を題材にして―

菊池勇夫(日本近世史)

 

江戸時代(近世)後期、東北地方から北海道南部にかけて歩き、土地の人々と交わり、見たこと聞いたことを、和歌や絵とともに書き残した旅の人、それが三河の人菅(すが)江(え)真澄(ますみ)(白井(しらい)英雄(ひでお))である。天明(てんめい)3年(1783)に北方への旅に出て、文政(ぶんせい)12年(1829)に秋田領で亡くなるまでの40数年間にわたり、ひろい関心をもってさまざまなことを書きとめた。民俗資料、文学資料、博物資料などとしてその利用価値は高いものがあるが、同時に歴史資料(史料)でもある。真澄の記録(記述)は近世後期の北の人々の民衆生活史を復元していくうえでの資料の宝庫であって、そこから何を引っ張り出してくるかは読む者の関心次第である。

今から200年も前となればその時代を生きた人はこの世にはいなく、その子や孫、ひ孫だっていない。言い伝える、語り伝えるといっても文字化を経ないで、どこまで伝承の力があるのであろうか。真澄の時代のことをそこに期待するのはほとんど無理である。しかし、真澄が人々の生活を見聞・観察し、ときに聴いたままの肉声を書きとめてくれたおかげで、当時の人々の日常・非常の暮らしにすうと入り込んでいくことができる。

このシンポジウムでは、菅江真澄の記録(旅日記、紀行)に出てくる、土地の知識、老婆、若者、娘らが真澄に語った肉声を取り上げてみようと思う。真澄によって多少は塩梅(あんばい)されているにしても、そこから人々の喜びや驚きや歎きや悲しみが私たちに直接届いてくる、そうした記述方法を効果的に用いている、それも真澄の特徴、工夫といえようか。記録を読む、声を聴く、そうした試みにとって真澄の記録が恰好の素材を提供してくれているのである。

一例だけ紹介しておこう。真澄が天明5年(1785)4月3日、秋田領の湯沢近くの柳田の里に出かけ、そこの家に泊ったのかと思われるが、翌朝、真澄が障子を少しあけて外をみていると、水汲みの「めらし」(女童、娘)が、どこの国の女かわからないが男とともに歩いていくのを見て、桶を捨てて家に駆け込んできた。そして、その娘が「あなる女を見よ、かうのけ(眉毛のこと)もなし」と驚いていい、それを聞いた「わかぜ」(若者)が「余所(よそ)国の人はみな、このけそりぬる」というと、娘が「あな、さたけなし(恥ずかしい)」と語る。

こうした反応、会話をたとえば取り上げて教養・人文の授業の材料としてきた。ここからどのような問題を引き出すことができるのだろうか。秋田領の成人の女性は眉を剃らず、他国では剃るという違いがあり、民俗知識によれば「昔」の女性の通過儀礼として成人、あるいは結婚すれば眉を剃り、お歯黒をするというのが習俗であったことが知られるのであるが、そうした規範からは秋田領がはずれているということを示している。さらに東北地方をみていけば、とくにその北半部では剃らないのが習慣であったことがわかる。真澄のみならず多くの外部からきた旅行者がそうした差異に気づき、「夷風(いふう)」などと違和感を発し、異文化感情を表出していた。そのようなことどもを真澄以外の資料も提示して説明してきた。そのさい、何といっても、娘の驚きが出発点であった。

当日のシンポジウムでは、まだ確定ではないが、災害や飢饉に遭った人たちの肉声のいくつかを紹介することになると思う。時空を超えて、人々の声を聴き澄ます、そういったことがどこかで教養教育とつながっている、そのような目論見をもって臨みたい。