【備忘録 思索の扉】六回 中世ドイツの笑いの性格(1)~『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』から~

Lemgo rathaus wall[143]中世ドイツの笑話文学の傑作に『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』という作品があります。流れ者のオイレンシュピーゲルが各地で人々にいたずらを仕掛けて騒動を起こすというものですが、彼は一体、何を目的としてそのような行動を取るのでしょうか。「笑い話だから深い理由は無い」と言ってしまえばそれまでですが、深く作品を読み込んで行くと、思わぬものが見えて来ます。

研究者の中には、オイレンシュピーゲルのいたずらの目的を下層民としての彼の立場と結びつける人もいます。中世の社会では、貧しい放浪者たちは法的な保護も限られていたため、市民に蔑視されて手荒く扱われることがしばしば見られました。オイレンシュピーゲルの物語にも、そのような扱いに対する仕返しとしていたずらを行うという話が幾つか見られます。

その一例が第40話です。冬をしのぐ場所が無くなったオイレンシュピーゲルは、ある村の鍛冶屋に「何でも出されたものを食べるから」と頼み込んで雇ってもらいますが、昼食の時間になると鍛冶屋は彼を便所に連れて行き、「何でも食うんだな」と言います。軽い冗談のつもりだったのでしょうが(夕方には鍛冶屋は彼に食べ物を与えます)、飢えに苦しむ者にとっては、これは心に突き刺さる侮辱でした。激怒したオイレンシュピーゲルは、「どんなに冬の寒さが厳しくても思い知らせずにおくものか」と、鍛冶屋のハンマーや火バサミを全て溶接して家を飛び出してしまいます。枯野で行き倒れになるリスクを承知で行った報復であり、差別に対する彼の激しい怒りがうかがえます(参照:阿部謹也「『ティル・オイレンシュピーゲル』を読む‐伝統的心性」『阿部謹也著作集』第3巻、筑摩書房、433頁)。

こう見ると、オイレンシュピーゲルは強きを挫くフォークヒーローのようですが、そう簡単には言えません。彼の行動には社会的な動機が見当たらない、愉快犯的なものも多いからです。動機を1つに絞れないところが彼のトリックスターらしさでしょう。しかし、中には彼の「いたずらの哲学」を示す話もあります。

第57話では、オイレンシュピーゲルはリューベックの町に滞在しますが、市参事会堂の酒蔵の差配人が「自分ほど賢い者はいない」と豪語していると聞くと、男の頭脳を試しに行きます。そして、まんまと差配人からワインをだまし取ると、「お前が阿呆だということがよく分かったよ。誰だって阿呆に騙されないほど賢いものはいないのさ」(阿部訳)と言い捨てて去るのです。この言葉に、オイレンシュピーゲルの信条を伺うことができます。賢者に見える人間もしょせんは阿呆、その実態は、世間で阿呆と見られている自分のような者こそが暴き出せるのだ、ということです。つまり、「人間は人間に過ぎない」という真実をさらし出すことが、彼のいたずら人生の究極的な目的と言えます。

このことは、彼が死の間際に行ったトリック(第93話)からも分かります。メルンの町で死の床についたオイレンシュピーゲルは、自分の財産を入れた箱を友人、市参事会、町の司祭に遺贈すると遺言し、死の4週間後に箱を開けるように指示します。いざ彼らが箱を開けると、中にあるのは石ころだけ。しかしこの3者は、他のグループが密かに中身を盗んで石を入れたのだと互いに邪推します。そもそも、名うてのいたずら者がしおらしく財産を贈るほうが不自然だと気が付くべきなのですが、欲に目がくらんだ彼らはそのことが見えず、他者に疑いの目を向けます。結果的に、彼らの強欲や猜疑心があらわになったのです。社会のお偉がたも一皮めくればこの通りというメッセージです。

このように見ると、他愛もなく見える物語にも、実は身分社会の覆いをひっぱがして笑いのめすようなパワーがみなぎっていることがうかがえます。中世の笑いの世界はなかなか骨が太いのです。次回では、オイレンシュピーゲル自身が出し抜かれるという逆転の話を取り上げます。  (栗原健 キリスト教学)