日本文学科 教授 田中 和夫

日本文学科の田中和夫です。
中国古典文学・中国語を担当しています。

現代、日本において、いわゆる古典が人々に読み継がれることが少なくなってきているようです。古いものが、現代のものとかけ離れているということで、遠ざけられてしまうのは残念なことです。古典には、現代の人々を遠ざけるものがあるのも、事実でしょう。中国の古典となると、なおさらなことかもしれません。長年中国の古典に親しんできている私においても、今なお違和感のあることは否めません。自らのことを振り返ってみるのも良いかもしれません。

私どもが高校生だった頃は、「漢文」という科目が独立していて、週一時間行われていた。なぜだかよくわからないが、授業は楽しかった。もちろん専門にしようなどとは思ってもみなかった。文学青年といったわけでもないのに、大学は文学部を選んだ。文学部には入ったものの、一・二年生の時は主として語学関係の科目と一般教育科目がほとんどで、中国文学関係の科目はほとんどなかった。ただ一科目「教養演習」のような形で、杜甫の講義があった。当時発足したばかりの中国文学科に主任として赴任された目加田誠先生が担当された。高校生の頃、先生の「旧詩新話」という随筆を読んで、その文章に何か風格のようなものが感じられ、それを切り抜いて大切にしていた。その先生の講義が聴けるとわかって本当にうれしかった。その講義は杜甫の詩を読み進めながら、その生涯をたどるといったものであり、手取り足取り漢文の読み方を指導するようなものではなかった。作品そのものを味読しながら、ずんずん読み進めていくものであった。

三年生に進級するときは中国文学科にしようか、国文学科にしようか、あるいは英文学かにしようかなどと迷ったが、出来たばかりの中国文学科に何か新しさがあるように思われ、思い切って中国文学科に進級した。三年の後期には卒論のテーマを決めなければならなかったが、中国の詩文を格別身を入れて読んだこともなかったので、どうしようかと迷った。(当時は学園紛争が激しかったときで、入学した一年生の時、また卒業を控えた四年生の時、それぞれ数ヶ月ほど大学が閉鎖された。同級生みな留年を覚悟していたが、何とか卒業できることになった。)同級生と連れだって、神田の本屋街に卒論に関する本を買いに行き、私は『杜詩詳注』『杜詩鏡銓』『錢注杜詩』を買い求めた。杜甫の詩の代表作だけを通釈を通して見ていた限りではさほど難しくも感じなかったが、いざ原文に沿って最初から注をも合わせて読んでみると、その難しさに驚いた。注を読めば杜甫の詩の通釈がわかるというものではなく、詩句中の語彙の来歴を記したものが主で、注に気を奪われていると、肝心の杜甫の詩の意味がどういうことになるのかわからなくなってしまうのである。もちろん注そのものの内容を理解することも容易ではなかった。いずれにせよ、古典の累積を逆にたどっていくという作業が強いられることになる。

青年の熱き情熱が溢れるように、そのままに歌いあげられたのが詩だ、などと詩に対して抱いていた思いは微塵にも打ち砕かれてしまった。

その後大学院に進学して、様々な作品を読むことになったが、中国の古典はその作品自体で独立して読み続けられるというよりは、後の人々が作品に注釈をつけ、原作はその注釈と共に伝えられていき、原作と注釈と相俟って読み継がれていく、そういったものであることに気づかされた。注釈は決して単に語彙の意味を説くなどというものではなく、時には原作そのものの解釈をも変えていくものとなる。優れた注釈は原作の付属品などではなく、注釈それ自身が一つの独自の世界を保ったものとなっている。もちろんあくまでも原作があっての話であるが。原作と注釈とは切っても切り離せないものといえるものなのである。原作は優れた注釈によって再生され続ける、そのように言えるであろう。原作の面白さとともにその注釈のもつ面白さが、中国の古典にはあると思う。

そのような思いで、ここ何年か中国の最古の詩集『詩経』の唐代における注釈、『毛詩正義』を読み続けている。種々考えるべきテーマがあるが、現在考えていることの一つに、注釈をしている人々の思考に中国語の発想が色濃く出ているのではないか、という問題がある。中国語で考えている人々(注釈者)にはその人々が何の疑問もなく自然と考える道筋があって、それはその用いている中国語によって自ずと制限・規制されてもいるのではないか、という事柄である。そのことは彼ら自身にはあまりにも当たり前で自然なことであるため、全く意識されることはなく、むしろ中国語以外の言葉でものを考えている外国人である者が、ようやく気づくことが出来ることのように思われる。しかも、その中国語の特異な発想というのは、語学で言えばごく初歩的段階で学ぶ事柄、そこにその秘密があるように感じている。

ユークリッド幾何学における平行線公理を吟味するところから、新しい幾何学が発展したような、そんなことが中国古典解釈の世界で出来たならば、などと思っているこの頃である。