人間文化学科教授 大平 聡

「歴史学」という学問

 大学院に入って本格的に歴史学を学び始めてから35年、もうそんなになったのかと改めて驚かされる。一体これまで、何をどこまで明らかにしてきたのだろう。

 研究を始めた時からずっと、「私がこの問題を解明してやる」と意気込み、ただひたすら、「解答」に向けて史料を解釈し、論理をこねくり回してきたように思う。その基本姿勢は、今流に言えば、「上から目線」であった。「現在研究している私が、過去を生きた人々より多くのことを知っている」という意識である。この意識に大きなゆさぶりをかけられたのが、「正倉院文書」との出会いであった。

 「正倉院文書」とは、東大寺の境内にあるあの有名な「正倉院」に保存されてきた奈良時代の文書群である。日本史の教科書に載っている奈良時代の「戸籍」を思い出していただければよい。ただし、「戸籍」は、「戸籍」として保存されたのではなく、ある役所で「戸籍」の裏が利用され、このいわば第二次利用によって、現在まで伝えられることになった。ある役所とは、お経を写すことを本務とした写経所である。つまり、「正倉院文書」とは、写経所の事務処理帳簿群であり、数字の羅列といっても過言ではない。写経用紙を作る人、写経する人、誤字を点検する人を差配し、大量の紙や筆墨を管理して、五千巻を超える経典を次々に写していく。人と物の管理を、当時の事務官は、筆と紙だけで管理していた。一つの写経事業には、十数種類の帳簿が作られることがあった。事務官の創意工夫に気付いた時、「彼らにパソコンを渡したら」と何度思ったことか。筆と紙だけで物品・労務管理を行い、大規模プロジェクトを次々とこなしていった彼ら事務官に畏敬の念を抱くと同時に、彼らのもとで働いていた人々の、現代のサラリーマンにも通じる日常の暮らしぶりに親しみを感じるようになってきた。

 そうしてみると、それまで「上から目線」で歴史上の有名人を見てきたことが恥ずかしくなり、政治家としてどのように考え、行動したのかを聞き出したい、教えていただきたいと思うようになった。

 「歴史学とは、過去を生きた人々から教えていただく学問である」最近私は「歴史学」について、そう考えるようになった。

 私の専門は古代史で、天皇制がどのように生み出されたのか、天皇(大王)の後継者はどのように決められてきたのかという問題に取り組んできた。

 その私が現在取り組んでいることは、小学校に保存されている資料の調査と分析である。ゼミの学生と、デジカメ・三脚を担いで、宮城県内の小学校を訪問して資料の調査を行っている。初めは、アジア・太平洋戦争期に、戦争がどのように小学校に入りこんできたかを調べたいと思ったのだが、調べ始めてみると、小学校には明治以来の貴重な資料が残されていること、また、学校日誌からは学校の中のことだけでなく、地域の様子が見えてくることがわかった。地域の諸団体の会合が学校で行われていたことが記録されているのだ。小学校は、公民館の役割を果たしていた。

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その小学校の資料が危機的状況に置かれている。自治体の広域合併の結果、小規模校の統廃合が進む。東日本大震災がそれに拍車をかけている。小学校の資料が貴重な地域の記憶遺産であることを訴え、その保存を進めなければならない。震災と津波で地域の資料のほとんどが失われても、小学校の資料が残されている地域がある。小学校の資料をもとに地域の近現代史を叙述することが課題に加わった。歴史学からの地域復興にゼミの学生と取り組んでいきたい。

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研究を始めてから35年、今、私はそんなことを考えています。最後に一言。古代史も続けています。