日本文学科教授 星山健

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こんにちは、日本文学科の星山健です。『源氏物語』などの平安朝文学の研究をしています。

 昨年は「源氏物語千年紀」ということで京都を中心にさまざまなイベントが行われました。私も学内外で三回ほど、それに関する講演をしました(写真は本学生涯学習センター企画でのもの)。そこで今回は、そのお話をさせていただきます。

 

09030501『源氏物語』作者の紫式部は、時の后・彰子(藤原道長の娘)のもとに女房として仕えました。その彰子が皇子を出産する記事を中心に記したのが『紫式部日記』です。その寛弘五年(1008年)一一月一日の条、生後五十日のお祝いの宴席を描いたところに、以下の記述があります。

 

 

左衛門督、「あなかしこ、このわたりに、若紫やさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上は、まいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。

 酔っぱらった左衛門督(藤原公任)が、紫式部がそこにいることを知り、「このあたりに、若紫さんはいらっしゃいませんかね」と戯れかかっています。若紫とは『源氏物語』のヒロイン、紫の上のことです。このように『源氏物語』の存在が確認できる年(1008年)からちょうど千年ということで、昨年(2008年)が「源氏物語千年紀」とされたわけです。

 ところで、この左衛門督の問いかけに対し紫式部は、「光源氏に似ていそうな方もお見えにならないのに、ましてあの紫の上が、どうしてここにいらっしゃるものですか」と思いながら、それを聞き流したと記しています。ずいぶんつれない態度ですね。しかし、紫式部は本当に不快感をもって、彼のことばを受け止めたのでしょうか。もしそうなら、それをわざわざこの日記に記さなかったでしょう。「源氏に似るべき人も……」は紫式部の恥じらいゆえのことばであり、心の中ではこの問いかけにむしろ満足感を抱いたのではないかというのが一般的理解です。その理由は、この「あなかしこ……」という問いかけが、左衛門督つまり藤原公任という男性から発せられたところにあります。

 公任は関白太政大臣頼忠の嫡男、母は皇孫という尊い出自を持つのみならず、博識多才で知られた人物でした。勅撰和歌集の母胎となった『拾遺抄』、朗詠のテキスト『和漢朗詠集』、公事儀式書『北山抄』などはすべて彼の手によるものです。『大鏡』の「三船の誉れ」のエピソードは、教科書や副読本などにも収録されていますから、読んだことがあるという方も多いでしょう。彼はまさに当代きっての文化人だったわけです。

 それに比して、物語というものは当時、社会的にきわめて価値の低いものでした。「女ノ御心ヲヤル物」(『三宝絵詞』)、現代に訳すといささか差別的な表現となりますが、「女・子供の慰みもの」というのが、物語に対するその時代の一般的な評価です。漢文で書かれたもの(史書・漢詩など)がメイン・カルチャーだった社会において、物語は明らかにサブ・カルチャーなのです。

 話を戻しますと、『紫式部日記』寛弘五年一一月一日の条は、そのようなものでしかない自分が書いた物語を、当代随一の文化人公任が読んでくれていたことを記しているわけです。紫式部は鼻高々という思いで彼のことばを受け止めながらも、それをそのままには記さず(このあたりが彼女と清少納言との性格の違いでしょう)、「源氏に似るべき人も……」と、照れ隠しともいうべき表現に置き換えたのだと思われます。

 さて、その公任も読んだという『源氏物語』は五四帖、文庫本にして一〇冊以上に及ぶ大作です。「そんな長いもの、とんでもない!」という人も、みんなで読めばきっと読み通せます。大学ではダイジェスト版を用い、一年間で『源氏物語』を通読する授業も行っています。また、社会人向けには生涯学習講座も開講しています。スタートはマンガ(大和和紀『あさきゆめみし』がお薦め)でも結構です。桐壺帝とともに愛する者を喪う悲しみを知り、六条御息所とともに恋のつらさを味わい、光源氏とともに……。ということで、皆さんもぜひ王朝ロマンの世界を楽しんで下さい。

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