今野 孝一(こんのこういち)と申します。専門は社会科教育、防災教育です。児童教育専攻の学生は、主に小学校教員免許状を取得し教員等になることを目指しています。私は、これまでの学校現場などでの経験をもとに、子どもたちと一緒に成長していく教員という仕事の素晴らしさを伝えるとともに、そのために身に付けていくべきことなどについて教えています。
今年の3月で東日本大震災からちょうど10年を迎えました。皆さんは、10年前にどこで震災を経験したでしょうか。中には、つらい経験をされた方もいらっしゃると思います。私はあの時、宮城県女川町の離島、出島(いずしま)にある女川第四小学校の校長をしていました。島には高さ20mの巨大津波が押し寄せ、8割以上の家が流され、女川町では827名(人口の8.3%)、出島だけでも25名の尊い命が失われました。学校は標高80mの高台にあり、幸いにも子どもたちや職員は全員無事でした。沿岸部や離島であの巨大津波を経験した教員の一人として、「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみや苦しみを経験させないため」、将来教壇に立つ学生にも防災教育の大切さや指導法を伝えることが務めだと考え、教員養成における防災教育カリキュラムづくりに取り組んでいます。
重なった三つの幸運
10年前の3月11日(金)午後2時46分、6時間目の授業がちょうど終わった時、校舎が壊れるかと思うほどの大きな揺れに襲われました。窓ガラスが割れ、壁が壊れる中、子どもたちも職員も全員がすぐに校庭に避難しました。揺れは3分以上続き、校庭が不気味に地割れし、校舎が音を立て揺れ続けていました。その後急に雪が降ってきたので体育館に避難させ、職員や中学生とともにテントを立て避難所を設営していると、津波を逃れた島民の皆さんが続々と避難して来ました。島に押し寄せた高さ20mもの巨大津波で、家々はがれきと化し、港の船はあっという間に流されていたのです。津波の前兆で海の底が見えるほど潮が引きましたが、まさか20mもの津波が襲来するとは想像していませんでした。
その後、学校に避難してきた350名の人々と寒い夜を過ごしました。津波でずぶ濡れの方も含め全員が助かったのは、幸運なことが三つ重なったからでした。
一つ目は、以前から私が教育委員会に頼んでいた水や食料、避難所用マットなどの避難物資が震災当日の午前中の船で学校に届き、避難物資として使うことができたことです。
二つ目は、島の工事現場に発電機が3台とドラム缶1本分のガソリンと灯油があり、夜通し暖房器具を使うことができ、低体温症の方を出さなかったことです。
三つ目は、島に配備されていた3台の衛星携帯電話のうち1台が流されずに残っており、発電機の電気を使って、「118番(海の救助番号)」で「全島避難」の救助要請が横須賀にある第3管区海上保安本部から東京消防庁、そして宮城県庁、自衛隊に繋がったことです。
避難した島民の皆さん
(3月12日朝)
自衛隊のヘリコプターで避難している様子
(3月12日午後)
三つの幸運が重なったお陰で、翌日の夕方までには、全員が自衛隊のヘリコプター11往復により石巻に避難することができました。しかし、いつでも幸運が起きるわけではありません。幸運がなくても、自分たちの力で命を守る率先行動ができるよう防災教育を推進することが必要です。
命を守る防災教育を
災害によって、また、住んでいる地域や地形などによって、必要となる防災教育はそれぞれ異なります。つまり、沿岸部であっても三陸地方のリアス式海岸の地域と仙台から福島などの平野部、大きな川の下流域などでは、津波の高さや浸水域が異なり、津波から命を守るための避難の仕方が違うのは当然です。防災教育への心構えは同じですが、防災教育の取組や避難方法については、その地域ごとにオーダーメイドする必要があります。
東日本大震災の被害や教訓も、時間とともに忘れ去られることを危惧しています。今年も2月に福島県沖で、3月には宮城県沖で大きな地震があったように、今は震災後10年だけではなく、次に起きる震災との間にあるのです。「ものを言わない語り部」として、各地に震災遺構として被災した建物や学校が残されたのは、大きな一歩だったと思います。コロナウイルスが収まれば、授業で震災遺構を見学したり、語り部の方から話を伺ったりするとともに、ドローンなども使い、学校が立地する地域に応じたオーダーメイドの防災教育の計画を立て、進めていく手助けをしていきたいと考えています。
誰も、いつどこで想定外の災害にあうか分かりません。自分や周りの人のかけがえのない命を守るために、自分の事として防災について学び、より実効性のある避難訓練に真剣に取り組んでいくことが大切です。
これからを担う子供たちのため、そして地域のためにも、「命を守る防災教育」を進めていく教員の育成が求められています。