この度の震災にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。
英文学科の鈴木雅之です。
わたしの研究専門領域は、18世紀~19世紀イギリス文学・文化です。イギリス・ロマン主義時代(1790~1842)の「詩」とその時代の「文化」を中心に研究しています。
今回は、この時代の特異な芸術家として高い評価を得ている、銅版画師・詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake 1757-1827)をご紹介します。ブレイク作品(図1)は、詩と絵とが一体化したもので「複合芸術」と呼ばれます。ブレイクは、銅版上に絵と詩を刻み彩色をほどこし印刷して売る、そのすべての工程をひとりで行いました。
陶芸家ウエッジウッド(1730-95)の壺のデザインや、シェイクスピア(1564-1616)戯曲等の挿絵(図2)も描いています。
ロンドンのキングズ・クロス駅近くにある大英図書館を訪れることがあったら、是非、正面大広場に置かれたブロンズ彫刻《ニュートン》をご覧下さい。
引力を発見したあの科学者ニュートン(1642-1727)です。彫刻の《ニュートン》は、ブレイクの作品をモデルにしたもので、スコットランドの彫刻家エデュアルド・パオロッツィの制作です。
ブレイク作品のひとつをご紹介しましょう。
ブレイク初期の傑作に彩飾本形式の詩集『無垢と経験の歌』(1794)があります。
これには「人間の魂の相対立するふたつの状態を示す」という副題がついています。
簡単に言えば、「無垢」とは、堕落以前の人間の魂の状態を示し、「経験」とは、堕落以後の人間の魂の状態を示します。
『無垢の歌』のひとつに、「よろこびというなのおさなご」(“Infant Joy”, 図3)という作品があります。
“Infant Joy”
各連が6行からなるごくごく短い詩です。
英語も日本語訳も、一見、とても簡単です。
ひとつ注意して頂きたいのは、ブレイクの原典には会話と地の文とを区別する引用符がないことです。これは意図的だとも考えられます。
もしここで「ぼく」の台詞と母親の台詞に引用符を付すと、母と子の違いを強調し両者の一体感を奪いかねません。引用符はテクストを侵害しブレイクの意図にも反します。
それにしても生まれて二日目の赤ん坊が言葉を話すこと自体、不思議な事です。
ブレイクは、赤ん坊の言葉によらないコミュニケーションを言語化して見せたのです。
母親には子供の気持ちが以心伝心で理解できるということなのでしょうか。
「あなたのことなんとよぼうかしら?」と言う母親に対して、
赤ん坊は、「ぼくしあわせ」(I happy am)と答えます。
「しあわせ」は「よろこび」(Joy)という赤ん坊の名前に通じます。
「しあわせ」という形容詞が、「ぼく」(I)と「である」(am)に挟まれていますね。
まるで「しあわせ」という感情が「ぼく」という存在に染みこんでいるようにも感じさせます。
挿絵を見てみましょう。
画面右下から上に向かって二本の茎が、詩のテクストを囲むようにして伸びています。
右の茎はS字曲線をなし、つぼみをつけています。左上に伸びた茎の先には、大きく開いた赤い花がついています。燃える炎の舌のような花弁に包まれて、ちょうどおしべとめしべの位置に、生まれたばかりの赤子を抱く母親とその母子に語りかける天使が描かれています。これはおそらくキリスト誕生を祝う場面を描いたものでしょう。
「たのしいよろこびがぼうやにふりそそぎますように!」という母親の繰り返しは、キリスト降誕を祝す聖母マリアの言葉を思わせます。右側に立つ、斑点ある蝶の羽根のようなものをつけた天使は、西欧文化の伝統では「サイキ」つまり「魂」を意味します。
それにしてもチューリップともアネモネとも見えるこの花は、実在するのでしょうか。
赤ん坊が自ら自分の名前を名乗ることの不自然さはどう解釈したらよいのでしょうか。
言葉によって名付けるという行為をどう考えたらよいのでしょうか。
そもそも絵と詩の関係を一体どう説明したらよいのでしょうか。
一見、やさしそうに見えるこの作品も、疑問を抱きはじめたら際限がありません。
このようなことを探求することがわたしの研究の一部であり、また講義で学生の皆さんと一緒に考えていることでもあります。
新年度、5月連休明けに皆さんとお会いできるのを楽しみにしています。