<連載コラム>旅と人間:旅人が伝えた江戸時代の災害情報~天明飢饉後の東北~

旅人が伝えた江戸時代の災害情報~天明飢饉後の東北~

高橋 陽一

 私は江戸時代の旅について研究しています。当時の人が書いた旅日記を読んで分析するのですが、そこには旅先に関する様々なことが記されていて、地域の実情を探る上でとても役に立ちます。その一つが災害情報です。
 江戸時代には災害が多発しますが、人的被害の観点でみた場合、最大の災害といえるのは飢饉です。とくに、1783年(天明3)に発生した天明飢饉の被害は甚大で、東北地方全体で約30万人、仙台藩領だけでも20万人が死亡したといわれています。一方、江戸時代には旅が大衆化しますが、全国的に旅行者が増加したのが18世紀後半以降です。津々浦々を旅した人々は各地で飢饉のこん跡を目の当たりにし、旅日記に記します。これは被災した当事者の記録ではありませんが、第三者がみた客観的な飢饉の情報としてあながち無視できません。ここでは、天明飢饉後に東北(奥羽)地方を訪れた人々の旅日記から、各地の復興状況を読み取ってみましょう。
 


高山彦九郎
(野村文紹『肖像』
国立国会図書館蔵)

 飢饉後の復興状況を知る手がかりの一つが、家の軒数に関する情報です。1790年(寛政2)に東北を旅した、上野国出身の尊王思想家高山彦九郎は、盛岡藩・八戸藩・弘前藩の主要町村における飢饉前後の家数を宿主らから聞き取り、『北行日記』に記しています。たとえば、八戸は飢饉前に約1,000軒だったのが彦九郎来訪時には700軒ばかりとなっており、青森は4000軒あったのが飢饉時の焼失・餓死・疫病などによって一時1,000軒以下となり、この数年は2,000軒近くに回復していたそうです。飢饉発生から7年近くを経ても、東北の町村の家数は以前の水準に戻っておらず、人口減少による地域の疲弊が続いていたようです。
 飢饉といえば米の値段も気になるところですが、これは旅人にとっても関心事の一つでした。『北行日記』には、飢饉時と比較した東北各地の米価が記されており、たとえば仙台藩領は、飢饉年には金1歩で米5~6升だったのが、1790年(寛政2)は1歩で9斗5升(米1升で銭約16文)だったそうです。銭1文は現在の10~50円に相当します。さらに、盛岡藩領の日詰郡山宿では飢饉時に米1升が220~230文(盛岡城下では300文)だったのが、現在は1升で12文ぐらいであり、昔から12文が最安値であるとも記されています。飢饉発生から7年後には、飢饉前の最安値まで米価が下落していたことになります。このほか、弘前藩領の弘前や秋田藩領の大館では1升で17文程度となっており、彦九郎が旅した当時、東北各地の米価は1升で10~20文程度に落ち着いていたことが確認できます。同年の大坂では、米1升がおよそ銭58文でしたので、東北の米は他地域の半値かそれ以下の値段だったことになります。
 飢饉前後(飢饉直後以外の時期)に旅をした人々は、東北の米が安いと実感したに違いありません。実際、1793年(寛政5)に弘前藩を訪れた常陸国出身の医師木村謙次は、1升で20文という米価を知り、「米価が低い土地」と述べ(『北行日録』)、備中国出身の地理学者で、幕府の巡見使に随行して東北を巡った古川古松軒は、米沢藩領の小国付近で米価を確認した際、「近年はことのほか高値で、1石につき3貫文(1升につき30文)となっている」と聞き、「こうしたこと(1升で30文が高値とされていること)を江戸に帰って語っても、本当だと思われまい」と驚嘆しています(『東遊雑記』)。

 


古川古松軒
(谷文晁『近世名家肖像図巻』
ColBaseをもとに作成)

 天明飢饉以降の東北旅行の旅日記には、各地の土地に関する言及もたくさんみられます。とりわけ特徴的なのは、東北を豊穣な土地だと評価する言説がみられることです。
1793年(寛政5)、木村謙次は仙台藩領北部の水沢付近には「肥沃な平原」があり、まさに「天府」(地味が肥え、産物が豊富な土地)と評し、秋田藩領の仙北も肥沃な土地だと記しています(『北行日録』)。江戸出身の画家谷文晁も1807年(文化4)に東北を旅した際、仙台藩領北部の三本木宿周辺を「一目百万石」の地で、「極めて上々田」だと評しています(『婦登古路日記』)。
 疲弊した町場と平野部との対比が鮮明になる記述もあります。1787年(天明7)、古川古松軒は上山城下を「皆々草葺・板屋根で見苦しい」と述べた直後に、赤禿山から見下ろした山形平野を「10万石もあるような畳を敷いたような田所」で、「上々国の風土」だと称賛しています。仙台藩領についても、北部の栗原郡若柳周辺を「田畑が大いに開けて幾万石もあるような平地」「九州肥後より優れた風土」と賛美する一方、仙台城下を「草葺の小家が混じり、見苦しい町がある」「町内は困窮している」「天明飢饉によって餓死者が多数出て昔の面影はない」と評しています(『東遊雑記』)。
 肥沃な平野が広がり、米が豊富に取れるが、飢饉の影響で町場は疲弊した状態が続いている。それが天明飢饉後に訪れた人々が認識した、東北各地の復興状況でした。18世紀は天明期以外にも飢饉が頻発しており、この時代に成年期を迎えていた人々は、自身が飢饉を体験するか、どこかでその惨状を伝聞していた可能性が高いのです。その経験が旅先の、とくに被害の大きかった東北の土地へのまなざしを生んでいったのではないでしょうか。

 
 天明飢饉後に東北を旅した人々の眼前に広がっていた肥沃な大地。そのインパクトは絶大で、後に本多利明などの経世家、果ては明治時代の大久保利通による東北開発論につながっていくのですが、それはまたの機会にお話したいと思います。
 


 

高橋 陽一 准教授 [教員プロフィール]
研究分野/キーワード:歴史学(日本近世史・旅行史・観光史・地域社会史)、歴史資料保全学
主な担当科目:リベラルアーツ総合A(東北)、基礎演習(宮城の歴史を読む)、日本社会の歴史、セミナー科目