【大学礼拝説教】その有様は人と異ならず

2020年6月10日 大学礼拝
フィリピの信徒への手紙2章6-9

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

 
新型コロナウイルスの感染は、ようやく少し収まりを見せてきたとはいえ、第二波への恐れもあり、依然、予断を許しません。少し前まではここ宮城県でも緊急事態宣言が出され、不要不急の外出を控えなさい、ステイ・ホームと言われていました。ステイ・ホームと言われて何だか犬みたいだなと思ったりもしましたが、そのころ皆さんは家で何をしていたでしょうか?本を読んだ人も多かったことと思います。
 
私はこのコロナの時代ですので、アルベール・カミユ作の「ペスト」という本を読み、たいへん感銘を受けました。カミユは自分自身の第二次世界大戦中のレジスタンスの経験を基に、戦争のメタファーとしてペストを描いたと言われています。実際にペストを体験したわけでもない一人の作家が、ここまでリアルに、そして深く、ペスト感染の拡がりゆく様(さま)を描けたとは、本当に驚きです。
 
この小説は第二次世界大戦直後のフランス領アルジェリアの港町オランが舞台です。物語はこのオランの街にネズミの死骸が異常発生するところから始まります。やがて人間の死者が出ます。市当局は、最初、これがペストであると認めようとしませんでしたが、死者の数が急激に増大するとついにこれを認め、そして、町を閉鎖します。ロックダウンです。たまたまオランの町を訪れていた新聞記者ランベールは、パリに残してきた恋人に会いたい一心で町からの脱出を図ります。彼は友人の医師リウーに、自分がペストに感染していないことを示す証明書を書いてくれと頼み込みます。しかしリウーは「私はあなたがペストにかかっているかいないか分からないし、それに万が一にも感染の可能性のある人を、私は医者として誰一人この町から外へ出すわけにはいかない」――そう言ってこれを拒みます。このあたりは、私たち教員が毎日大学で話しあっていることとそっくりです。
 
リウーのこの拒絶に対してランベールが語った言葉が重要です。彼は「あなたが語っているのは理性の言葉だ。あなたは抽象の世界にいるのだ」と言ったのです。君にとってペストという病気はしょせん他人事だ、愛する恋人と再会できない僕の気持ちが君に分かるか!という訳です。ここに語られる「抽象」という言葉こそは小説「ペスト」のキーワードです。カミユの言う「抽象」とは理性であり、客観性であり、そして状況に関わらない生き方です。つまり他人事の生き方です。「抽象」の反対語は「愛」と言ってよいと思います。あるいは人に寄り添うという意味で、「臨床」と言ってもよいと思います。小説「ペスト」は、人々がペストという状況に置かれることによって、それまでの抽象的な生き方から、自分を取り巻く状況に深く関わって生きる臨床的な生き方へと、つまり愛によって生きる生き方へと変えられていく様子を描いた群像劇であると言うことができると思います。ぜひご一読をお勧めします。
 
私が学長室でパソコンに向かってコロナについて調べたり考えたりするとき、私は完全にコロナを抽象としてとらえています。生物学者が「新型コロナウイルスは、コウモリの中に普通に存在していたコロナウイルスが、哺乳類センザンコウの体内で突然変異し、人間への感染力を獲得したものらしい」と言うのを読んで、一つ賢くなった気になります。あるいは新聞で「コロナは自然を破壊した人類に対する自然からの報復である」とあるのを読んで、そうかも知れないと思ったり、あるいは「我々人類はいつもウイルスに囲まれて暮らしてきた。だからコロナと闘うのではなく、コロナと共に生きることを考えるべきだ」との言葉に深く頷(うなず)いたりします。これらはみな、コロナについての抽象的な理解です。コロナを抽象的に理解することは、悪いことではありません。これからどのようにコロナと共に生きるか、あるいはどのように新しい生活様式の下(もと)で生きるかを考えることは、宮城学院女子大学の将来にとって、とても大事なことです。
 
しかし、たとえそうであっても、こうした抽象的な理解は、やはりコロナの一面しかとらえていないことを私たちは忘れるべきではないでしょう。コロナについて考える時は、やはり具体的に考える必要があります。いまテレビやネットニュースでは、今日の感染者は何人でした、死者は何人でした、と毎日伝えます。それを聞いて私たちは、コロナが減ったとか、増えたとか、落ち着いたとか、いやまだまだ、と一喜一憂します。この時、コロナは数字であり、抽象です。しかしそんな中、志村けんさんがお亡くなりになった(3/29)、あるいは岡江久美子さんがお亡くなりになった(4/23)というニュースが飛び込んできますと、コロナは突然、抽象であることを止(や)めるのです。私自身、これらのニュースを聞いて、自分でも情けなくなるほど突然コロナが怖くなりました。コロナが他人事であることを止め、自分事になったのです。私はNHKの朝ドラが大好きで毎日欠かさず観るのですが、先週は、生前の志村けんさんが意地悪な作曲家役で出演しておられました。あの場面は今年の3月上旬に収録されたものだそうですが、それからひと月もたたない3月29日、志村さんはお亡くなりになったのでした。
 
コロナについて考える時は、具体的に考えたいと思います。コロナで命を落とした人のこと、コロナで生死をさまよっている人のこと、感染しただけで何かすごく悪いことをしたかのように差別されている人のこと、命懸けでコロナと戦っている医療従事者のこと、それなのに子どもをよこさないでくれと保育所に言われた人のこと、宅急便を届けたら出てきた家の人に突然、除菌スプレイをかけられた人のこと、子どもたちを喜ばせようと駄菓子屋を開けていたら「子どもたちを集めるな!」と店に張り紙されたおばさんのこと、突然アルバイトがなくなって途方に暮れている人のこと、これらの人々に思いを馳せたいと思います。そうした具体的な一人ひとりの悲しみと怒りの集積が新型コロナなのです。
 
イエス様というお方は抽象的な存在ではありません。理念ではありません。具体的にこの世の生を生きた一人のお方です。今から二千年前のユダヤの地で、神の国を伝え、病の人を癒し、虐げられている女性たちを慰め、宗教権力者たちを批判し、彼らの怒りを買い、そしてゴルゴダの丘で十字架に架かって処刑された一人の人間です。今日、お読みした聖書には、主イエスは「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」なお方であった、と書かれています。私はフィリピの信徒への手紙のこの箇所に来ると、どうしても昔の口語訳聖書でここを読みたくなります。口語訳聖書ではこの箇所は、「その有様は人と異ならず」と書いてありました。「その有様は人と異ならず」――主イエスは徹頭徹尾、一人の人間だった、というのです。しかし聖書はさらに、この一人の人間イエスこそは、完全な人となり給うた神ご自身であったと伝えます。人となり給うた神は、私を愛してくださり、この私を救うために十字架で死んでくださった、と伝えます。だからイエスは私たちの主キリストである、と伝えます。私たちは、じつにイエス・キリストというお名前の中に、愛と抽象が共存していることを見出すのです。
 
コロナのような理不尽な不幸に出会うとき、私たちは神も仏もあるものか、と叫びたくなります。あるいは、かの哲学者ニーチェが言ったように「神は死んだ」と言いたくなります。しかし、たとえそのような状況であっても、「神は死んだ!」ではなく、「神は死んでくださった!」「この私のために!」と、もし信じることができれば、イエス・キリストのこの十字架の出来事はただちに私たちを抽象の世界から引きずり下ろし、臨床的な、愛によって生きる生き方へと押し出してくれるのです。
 
じつに宮城学院はそのようにして押し出された女性たちによって134年前に創設され、そのような女性たちを今日まで輩出してきました。そのことを、このコロナ時代にあってあらためて噛みしめたいと思います。