本日ここに、晴れて学士の学位と修士の学位を授与された皆さん、おめでとうございます。本年度は学芸学部七〇三人、大学院人文科学研究科二人、健康栄養学研究科三人、合計七〇八人のみなさんが、宮城学院から巣立つことになりました。勉学に励んでこの日を迎えたみなさんに、宮城学院女子大学を代表して心よりお祝いを申し上げます。
みなさんが今日という日を迎えられたのは、みなさん自身の努力のたまものであります。しかしそれだけではなく、多くの人たちの支えや手助けがあったからだということを忘れてはなりません。特にみなさんの保護者は、みなさんに深い愛情を抱き、学費と生活費をみなさんのために注いでくださいました。みなさんはそのことを当たり前のように受けとめて大学生活をエンジョイしてきたかもしれませんが、それができたのは、保護者の方々の惜しみない愛情と経済的な支援があったからだということを改めて噛みしめてください。だからこそ今日は、保護者の方々への感謝の気持ちを、ぜひみなさんから、しっかりと伝えていただきたいと思います。「これまで育てていただいて、ありがとうございました」。この一言で、親御さんをはじめとする保護者の方々の、これまでのご苦労は吹き飛んでしまうと思います。
今日は皆さんにとって新しい人生の旅立ちの日であります。それぞれに様々な道に進んでいくことになりますが、これまでの学生時代とは異なり、社会人として、職業人として、そしてやがては家庭人として、多くの問題に直面することになると思います。なんの問題もない人生など、誰も体験することはできません。山あり谷ありだからこそ、人の一生は歴史、つまりライフ・ヒストリーとなるのです。みなさんはこれまでも、そのヒストリーをつくってきました。最低でも二二年、大学院生であればそれに二年を加えることになります。
二〇一六年に発表された日本人の平均年齢は、女性が八七歳、男性が八〇歳でした。ということは、多くのみなさんは二二歳ですから八七歳の四分の一しか生きていないことになります。これからの四分の三の人生を、どう生きていくか。そのことをみなさんは考えていかなければなりません。
その二二年の人生のうち皆さんは、小学校・中学校・高校・大学と一六年間の教育を受けてきました。大学院生は一八年ということになります。七歳で小学校に入学して以来、今日まで一貫して学びの人生を歩んできたということができます。みなさんの人生はまだ平均年齢八七歳のうちの四分の一にすぎないのですが、その二二年の人生のうちの四分の三は、学校教育を受け続けてきたということになります。
これだけ丁寧な教育が、日本という社会の仕組みのなかで実現されてきました。世界には発展途上国や最貧国など、なお恵まれない状態にある国々も少なくありません。そうした状況のなかで、皆さん方が受けてきた教育というものが、いかに恵まれたものであったのかということについても思いをいたしていただければと思います。
とはいえ、顧みれば日本の女子教育もまた苦難の歴史のなかから始まりました。
一八七二年(明治五年)年に公布された明治政府による新しい学校制度では、華族・士族から一般庶民に至るまで、男女ともに小学校に通わせることが定められました。しかし翌明治六年の就学率は、男子が四〇%であるのに対して、女子の就学率は一五%にすぎませんでした。これが一八九三年(明治二六)年は男子七〇%、女子三〇%になっています。二〇年ほどの間に女子の就学率は倍になっていますが、男子に比べるとまだ四割程度にすぎません。学校教育の始まりの時期は、このような状態だったのです。
そして宮城学院の前身である宮城女学校が創立されたのは、一八八六年(明治一九年)のことでした。女に教育はいらないという風潮がまだ根強い社会にあって、女子教育の旗を掲げてこの仙台に女学校を開いたのはアメリカ合衆国改革派教会から派遣されたプールボー校長をはじめとする宣教師の先生方でした。
キリスト教という異質な文化に対しては、それを文明開化の象徴として歓迎する一方で、江戸時代の長いキリスト教禁止令の影響から、抵抗感をもたれることも少なくありませんでした。プールボー校長たちが仙台にやってきたときも、その両方の複雑な感情がまだ色濃く残っていたのでした。
キリスト教は、男と女は神の前において人間として平等であるとの思想を持っています。当時の日本の現実のなかで、こうしたキリスト教の男女観を社会全体に理解してもらうには相当の困難があったのだと思います。しかし、英語や音楽をはじめとする魅力的な科目を提供していくなかで、宮城女学校には多くの女子たちが入学するようになりました。宮城県だけではなく、広く東北の各地からも良家の女子たちが集まってきたのです。宮城女学校は、女子たちのあこがれの学校としての地位を確立し、この東北の地に高等女子教育を根付かせていったのでした。
みなさんが学んだ宮城学院は、このような歴史と伝統をもっています。その歴史と伝統が宮城学院のカラーを生み出してきています。
学外の方から、宮城学院の学生さんは宮城学院らしい雰囲気がありますね、と言われることがあります。
以前にタクシーの運転手さんから聞いた話を紹介しておきましょう。私が学外の会合に出るために大学からタクシーに乗ったときのことです。運転手さんが、宮城学院の学生さんはとても礼儀正しいですねえ、と話しかけてきました。それによると、先日まちなかで若い女性を乗せたのですが、話しかけても嫌がらず、とても礼儀正しい人だったので、どちらの学生さんですか?と聞いたそうです。すると、宮城学院ですと答えたので、やはりなあと思ったそうです。宮城学院の学生は礼儀正しい人が多いと思う、ということでした。運転手さんは、その日は一日とても気持ちよく過ごせましたよ、とも言っておられました。
礼儀正しいということだけが宮城学院らしさということではないと思います。その礼儀正しさを含めて、品のよさ、暖かみがある、やさしさを感じる、など、いろんな要素が入っていると思います。
やはりなあ、と思わせる宮城学院の雰囲気とはなにでしょうか。なぜそのような雰囲気を宮城学院の多くの学生は身につけることができるのでしょうか。
もうひとつ付け加えておきましょう。私はこれまで、宮城県内の多くの公立高校や私立高校を訪ねて、校長先生に挨拶をしてきました。そのときにある校長先生から、わが校には宮城学院女子大学を卒業した先生がいますが、まじめで安心感があり、優秀です、生徒たちからも信頼されていますよ、と言われました。別な学校の校長先生も、うちにいる宮城学院出身の先生は宮城学院らしい雰囲気で、とても良いですねとおっしゃいました。
このような話しを聞きますと、どうやら宮城学院らしさというのがあるのだなあと思わざるをえません。みなさんは宮城学院に入学以来、スクールモットーとして、「神を畏れ、隣人を愛する」という言葉を繰り返し聞いてきたことと思います。「神を畏れ」とは神に対して畏怖と尊敬の念を抱くことであり、「隣人を愛する」とは他者との関係を大事にするということであります。
この言葉を、このキャンパスで絶えず耳にし、目にしていくなかで、その精神が少しずつみなさんの心と身体に染みこんでいっているのではないでしょうか。それが宮城学院カラーとして表れてきているのではないかと思います。みなさんはこれから、宮城学院の卒業生として人に見られ、評価されていくことになります。卒業後も宮城学院のカラーを大事にしていっていただきたいと思います。
卒業にあたり、ぜひみなさんの心に留めておいていただきたいことがあります。二〇一一年三月十一日に発生した東日本大震災から六年が経ちました。仙台で生活をしていますと、震災から順調に復興しているように感じられます。しかしながら、津波の被害の大きかった沿岸部や放射能で汚染された地域では、産業の復興も生活の再建もままならない状態が今も続いています。皆さんは、この巨大な災害を身近に体験しました。家族や身近な方を失った人もおられることと思います。そしてみなさんは今、この東北の地が東日本大震災のダメージから立ち直る歴史の過程のまっただ中にいます。卒業してからも、被災地にある大学で学んだ者として、被災地の立ち直りに心を寄せていただきたいと思います。
皆さんは青春の大切な時期を、この宮城学院で過ごしました。煉瓦色に包まれたこの美しいキャンパスの風景を、その目と心に焼き付けておいてください。この宮城学院で学び、経験したことが、みなさんの人生の礎となり、心の糧となることを願って、私からのお祝いの言葉といたします。
本日はおめでとうございました。
2017年3月17日
宮城学院女子大学
学長 平 川 新