2021年12月3日 大学礼拝
ルカ 1:26-38
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊(ふにん)の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
ガリラヤのナザレの町に、マリアという娘がおりました。まだ若い、普通の田舎の娘でした。もうすぐヨセフという青年と結婚することになっていました。ある日、マリアのところに、神さまからの使い、天使ガブリエルが来て言いました。「おめでとう、マリア」。
この言葉、ラテン語で何というかご存じでしょうか?答えは Ave Maria。モーツアルト始め、たくさんの作曲家が Ave Maria という題目の曲を書いていますから、きっと皆さんもよくご存知の言葉だと思います。みな、今日お読みした聖書が出所(でどころ)です。天使ガブリエルは Ave Maria に続け、次のように言いました。「主があなたと共におられる。恐れることはない。あなたは神さまの御子を産むように選ばれた。その子をイエスと名付けなさい。」有名な「受胎告知」の場面です。最もポピュラーな聖画の題材として、昔から多くの画家によって描かれてきました。
マリアは戸惑います。無理もありません。知らない人からいきなり「おめでとう」と言われたら、誰でも戸惑います。今は大分減りましたが、昔はそういうメールがよく来ました。「おめでとうございます!あなただけに特別のお知らせです」というメッセージです。こういうのは間違いなく詐欺メールです。知らない人から「おめでとう!」と言われたら、あやしいと思わなくてはいけません。マリアの戸惑いはもっともなことでした。
ガブリエルは続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」こう言われても、マリアの心配は募るばかりです。まだ結婚前の娘に赤ちゃんができると言うのです。結婚前の娘に赤ちゃんができ、そのことが世間に知れ渡れば、当時のイスラエルでは、娘は秘密の結婚をした女として石打の刑に処せられることになります。マリアはひどく恐れました。
ガブリエルはさらに続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」 マリアが産むのは神さまの子どもだ。その徴として、年老いたあのエリサベトもいまや身ごもっている。こうした「奇蹟」が、神の出来事のしるしとして与えられている。――そうガブリエルは告げたのでした。
「わたしについて来なさい」と言われたとき、シモンとアンデレの兄弟、そしてヤコブとヨハネの兄弟たちは、自分たちがなぜイエスさまに選ばれたか、よく分かりませんでした。彼らが特別に信仰深かったからではありません。特別に頭が良かったからではありません。特別に話が上手で、信者を増やす才能があったからでもありません。シモンとアンデレは魚を取っていただけですし、ヤコブとヨハネは網の手入れをしていただけなのです。イエス様が弟子たちをお選びになった、神の御子が弟子たちをお選びになった、それだけが、彼らが選ばれた理由なのです。
しかしこの時、もっと大きな奇蹟が起きました。なんとマリアは天使の言うことを信じたのです。マリアは天使に言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」「はしため」とは召使のことです。私は主の召使です。お言葉どおりのことが、この私の上に実現しますように。そうマリアは答えたのでした。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」この箇所を英語の聖書は“I am the servant of the Lord. Let it be to me according to yourword”と訳します。“Let It Be”というビートルズの有名な歌があります。この歌は、今日お読みした聖書箇所に inspire されて出来ました。“Let It Be”とは「なるがままに」という意味です。「なるがままに、まかせておきなさい」という意味です。
ある人はこの Let it be を「素直に、思うように進めばいい」と訳しました。中学校の合唱コンクールの課題曲などに多いメッセージと思います。こちらの方が分かりやすい、と言う人も多いことでしょう。しかしよく考えてみると、「なすがままにまかせる」というのと「思うように進む」というのは、だいぶ違います。「思うように進む」ためには、自分が何をしたいのかはっきり分かっていないと進めません。しかし私たちは、自分が何をしたいのか分からないから悩むのです。分かっていれば苦労はないのです。
悩みの原因は、「自分の声」を聞こうとするところにありました。 Let it be according to MY word. ではうまく行かないのです。マリアはそうは言いませんでした。マリアは Let it be according to YOUR word. と言ったのです。「お言葉どおりなるがままに」、とマリアは言ったのです。私は今からちょうど50年前の1971年の3月、東北大学を受験するため、独り京都から仙台にやってきました。18歳でした。それが事実上、生まれて初めての仙台でした。当時はオープンキャンパスなどというしゃれた大学紹介行事もなく、私はけっきょく一度も大学を見ることもなく、いきなり受験にやってきたのです。決め手になったのは、夏休みに東北地方を旅してきた友人が私に語った一言、「末光、東北大学はめっちゃ綺麗な大学やった」の言葉でした。大学時代ぐらいは親元を離れ、誰ひとり知る人のいない街で暮らしてみたい、そう思っていた高校3年生に、「杜の都」という言葉は何とも美しく響いたことでした。あれから50年が経ちました。その時の若者は、まだこの仙台に住んでおり、そして学生時代にあこがれていた宮城学院女子大学の学長をしています。とても不思議なことです。私が仙台に来るという決断もまた、今から思えば、私にとっての Let it be to me according to your word. だったと思います。
キリスト教では、いま待降節という時期を過ごしています。待降節を英語でアドベントと言います。アドベントとは「これからやってくる」という意味です。ここから転じてアドベントには「待ち望む」という意味が生まれました。待ち望んではいるのですが、これからどんなことが起こるか分からないので、少し心配になります。アドベントのそんな気持ちから、アドベンチャー=冒険という言葉が生まれました。アドベンチャーには「ちょっと不安、ちょっぴりワクワク」という気持ちが両方入り混じっています。このワクワク感ある冒険アドベンチャーからベンチャーという言葉が出てきました。ベンチャー企業などと言われる冒険的新規事業のことです。アドベント、アドベンチャー、ベンチャー、みんな親戚です。アドベントという言葉には、期待と不安と冒険が響きあっています。
まさにマリアは冒険に出かけたのでした。神の御子を身ごもるという、これ以上の冒険があるでしょうか。マリアがこの冒険に出かけることが出来たのは、マリアが、Let it be to me according to your word. 「神様、あなたのお言葉に、お任せします。どうかお言葉どおりのことが、この身に起こりますように」とすべてをお任せしたからです。この告白によってマリアは、女性男性を問わず、この地上の誰よりも勇気ある人間となりました。先ほど歌いました讃美歌175番は「マリアの賛歌」Magnificato と呼ばれる讃美歌ですが、その4節は、「低きものを 高めたもう みめぐみ、おごるものを 引き降ろして、散らしたもう みちから」となっています。まるで革命を鼓舞するような内容ですが、これはマリアの言葉です。マリアはすべてを神様に委ねたこの世でもっとも謙虚な人でしたが、まさにそのことによって、マリアはこの世でもっとも勇気ある人になりました。私たちもまた、「自分の言葉」ではなく「あなたの言葉」=「神の言葉」に身を委ね、そのことによって冒険するものになりたいと思います。アドベントはアドベンチャーの時であります。