【大学礼拝説教】新しい光を浴びて

2021.01.08

2021年1月8日 大学礼拝
ヨハネによる福音書1:1-5

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 
新しい年を迎えました。「おめでとうございます」と挨拶を交わすことがためらわれる今年のお正月でした。しかし私たちの昨年の歩みがどれだけ破れの多いものであったかを思う時、それにも関わらず神様が私たちに新しい朝日を昇らせ、新しい年を迎えることを許して下さった、そして2021年の新しい命を与えてくださったことを思いながら、私たちは堂々と「新年明けましておめでとうございます!」と挨拶を交わしたいと思います。
 
今日お読みした聖書に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とありました。私は物理学者の端くれですが、光というのはつくづく不思議なものだと思います。自分の名前に光という字が入っていることもあって、私は光には強い思い入れがあります。光が波の一種であることは皆さんご存知だと思いますが、普通、波が伝わるためには波を伝える媒体というものが必要です。音であれば空気という媒体が必要です。ガラス容器の中の空気をポンプで抜いていくと、中に吊るした鈴の音がだんだん聞こえなくなるという実験をご覧になったことがあるでしょう。サーファーは海という媒体の表面に立つ波に乗って遊びます。満員のスタジアムに立ち起こる観客たちのウェーヴは、観客たちが媒体です。無観客試合であればウェーヴは起きるはずがありません。波が伝わるには、それを伝える媒体が必要なのです。
 
それなのに光は、真空という、文字通り何もない空間を伝わります。これはとても不思議なことです。真空という名の暗闇の中をスーツと光が伝わって行くとき、暗闇はきっと「なんだありゃ?」とビックリしながら通り過ぎる光を眺めるに違いないのです。「暗闇は光を理解しなかった」という言葉は、物理学をやっている人間にはこのように理解されます。
 
「暗闇は光を理解しなかった。」昔の口語訳聖書では「闇は光に勝たなかった」と訳されていました。こちらの訳にも別の味わいがあります。昔、ベルリンの壁というのがありました。第二次世界大戦後、ドイツが東と西に分けられ、さらに東ドイツの中にあるベルリンの街の西半分だけが、西側社会の飛び地としてぐるっと壁によって閉じこめられてしまったのです。これがベルリンの壁です。実際に見ると意外と薄い壁なのですが、常に東ドイツの兵士が見守っており、この壁を乗り越えようとする人は容赦なく鉄砲で撃たれました。政治的にはとてつもなく厚い壁でした。この壁がなくなることは1989年11月9日まで、とうてい考えられないことでした。長くベルリンに住むドイツの友人が、次のような話をしてくれたことがあります。まだ壁が西ベルリンを取り囲んでいたころ、その友人は息子と一緒に壁に沿ってサイクリングをしたのです。壁を見て息子は父に尋ねます。「お父さん、この壁が無くなる日はいつか来るの?」友人は答えました。「息子よ。人間が作ったもので永遠に存続するものはない。だが息子よ、お前が生きているうちにこの壁が壊れるのを見ることはないだろう。」しかし同じ壁を前にして、当時のベルリン市長ヴァイツゼッカーは次のように言いました。「この壁を作った人間が気付いていないことが一つある。それはこの壁がいかに非人間的なものであるか、いかに人間を抑えつけてしまうものであるかということだ。そんなものは決して永遠には続かない。」彼がこのように語った10年後の1989年、この壁は軍隊ではなく、東西ベルリンの人々の手によって崩されました。そして壁だけでなく、東ドイツという国そのものが消えました。ヴァイツゼッカーは正しかったのです。暗闇は光に勝つことができなかったのです。
 
私たちにとって暗闇とは何でしょうか?光のない暗闇、それは虚無であると言ってよいでしょう。「神のいない世界」と言ってもよいでしょう。皆さんは「ほら吹き男爵」の話を聞いたことがあるでしょうか?ミュンヒハウゼンという実在の人物で、彼はほら話をしては人々を煙に巻くのを得意としていました。彼の十八番は、「私が、底なし沼に馬と一緒にはまり込んだ時はな、自分で自分の襟首をつかんで馬ごと引き上げ、無事、底なし沼から脱出したんだ」という話でした。私たちは彼のことを笑えません。「自分で自分を支える」という、ミュンヒハウゼン語るほら吹き男爵と同じことを私たちはやっているからです。
 
自分で自分を支える、とはどういうことでしょうか。皆さんは学校の合唱コンクールで、「自分を信じよう!」という意味の歌を歌ったことがあると思います。自分で自分を支えるとは、自分を信じることです。とても大切なことなのですが、しかしもしそれだけだと、とてもつらいことになります。自分ほど当てにならないものはないからです。私は学生の時「この世に神は存在するか」ということを考え続け、「もしこの世に神がいなかったら私の気が狂う!」という結論に達しました。もしこの命題が正しいとすると、「私は正気なので神は存在する」ということにもなるのですが、しかしそのように言う為には「末光が正気である」という非常にあやしい前提を認めなければなりません。なので、これは神の存在証明にはなりません。皆さん騙されてはいけません。
 
「自分で自分を支える」とは「自己責任」ということです。「自分を信じて頑張ろう」という言葉の先には「自己責任」という言葉が待っています。自己責任とは、うまく行かなかったのは自分が頑張らなかったから、と思うことです。成功したのは自分が努力したから、コロナに感染したのは、自分が注意を怠ったから、と思うことです。自分、自分、自分。自己責任は結局、ぜんぶ自分のせいになります。間違っています。本当は、どんなに努力しても失敗することがあるのです。逆に全然努力しなかったのに、うまく行くこともあるのです。どんなに注意していても、コロナに感染することがあるのです。自己責任という言葉ほど、私たちを不幸にする言葉はありません。
 
昔の人はそんな風に考えませんでした。それは<幸せ>という言葉を考えてみるとよくわかります。<幸せ>を意味する英語happiness、あるいは<幸せです>という形容詞happyに含まれるhapという音は、happenやhappeningのhapと同じ音です。Hapは、何か予期せぬことが起こる時の音です。<幸せ>は<出来事>なのです。そして聖書は、その<出来事>は神さまの<恵み>として起こるのだ、と私たちに伝えます。
 
私たち現代人は自己責任ということを言いすぎたために、<恵み>としての<幸せ>を忘れてしまいました。いいことも悪いこともぜんぶ自分のせい、と考える癖がついてしまいました。これはつらいことです。宮城学院に学ぶ私たちは、「自己責任」という言葉に立ち止まることが許されません。「神を畏れる」私たちは、神様がすべてを支配されるお方であることを知っています。ですから、幸せは神様の恵み!なのです。そのことを知っているかどうかで、私たちの人生が変わります。嘘だと思ったら、何か良いことがあったとき、「ああ、これは神様の恵みだ!」って声に出して見てください。人生が変わります。
 
今日は、そのように思ったことで幸せな人生を送った、名もない詩人の一篇の詩を味わいましょう。ニューヨークのリハビリテーション・センターの壁に掲げられている詩です。
 

大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
得意にならないようにと失敗を授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意に沿わぬものであるにかかわらず、
心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。

私はあらゆる人の中で、
もっとも豊かに祝福されたのだ。

 
「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。」 これが私たちの幸せです。夜の岬で灯台の光を見ると、灯台の光が自分の方を向いた時だけピカッと光ります。暗闇を突き抜けて、光は私たちのところに届くのです。このコロナの時代にも主イエス・キリストは私たちと一緒にいてくださいます。

トップへ