2020年9月25日 大学礼拝
マタイによる福音書18:21-35
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
最近放送されているテレビドラマの主題歌で、Dreams come trueいわゆるドリカムがYES AND NO という歌を歌っています。その歌詞が最近ずっと気になっています。
たったイッカイ やらかしたら終わり
そんなイマを 窮屈に生きてる
なんでみんな 許さないの?
そして わたしは許せるの?
「たった一回やらかしたら終わり。なんでみんな許さないの?」この言葉は、たった一回の失敗もゆるさない、今の日本社会の冷たさをよく表していると思います。
私の前の職場の同僚に、20年間アメリカで暮らしてから仙台にやってきた物理学者がいました。見かけは日本人なのですが、中身は完全にアメリカ人です。彼が仙台にやってきて1-2年たったある日、彼は私のところにやって来てこう言いました。「末光くん、アメリカと日本の組織の違いがやっと判ったよ。」「アメリカはルールで禁止されていること以外は何をやっても構わない。日本はルールに書いてあること以外はやっちゃいけないんだ!」コロナの時代になり、彼は正しかったとあらためて思います。ヨーロッパやアメリカの人たちは、法律でしっかりと決めない限り、けっしてマスクをしません。そこで政府は、マスクなしで外出することを禁ずる法律を作りました。違反すると罰金です。ドイツのある州ではマスクを着けずに外出すると罰金3000円、カリフォルニア州サンタモニカではマスクなしで3回つかまると何と5万4千円の罰金だそうです。そうでもしないと人々はマスクを付けないのです。日本は違います。自治体やテレビが呼びかけると、たとえ罰則がなくても、みんなマスクを着けます。
日本では世間の目こそがルールであり、世間の目に背く行いは許されません。違反すると自粛警察に取り締まられ、場合によっては風評被害に苦しめられます。いずれも法律的根拠はありません。私たちは、法律やマニュアルに忠実に従うだけでなく、「世間の目」という目に見えない、それでいて強烈なルールにも従って行動します。このような行動原理を仮に「マニュアル/世間主義」と呼ぶことにしましょう。
「マニュアル/世間主義」の最大のメリット、それはとても効率がよく、仕事の質が高いことです。仕事内容はマニュアル化されていますし、それ以上に、職場という名前の「世間」がマニュアルに書いていないハイレベルのことまで厳しく要求するからです。日本の工業製品の質の高さは、このようにして維持されてきました。
「マニュアル/世間主義」は、組織の目標がはっきりしている時には大成功でした。しかし目標が見えない時代になり、今この守りの考え方が、急速に日本の衰退をもたらしています。まず、日本に元気がなくなりました。日本の組織では、指示されていないことをやって失敗したら、あとで何を言われるか分かりません。そこで、マニュアルに書いてない事態が発生すると、いちいち上の人に指示を仰ぐようになりました。こうして日本の組織は<指示待ち人間>ばかりになりました。会社では、現場の人間は何一つ自分で決められず、細かいことを一つ一つ本社にお伺いを立て、そして返事を待ちます。当然時間がかかります。現場が即決できないので、大切な注文をみんな後から力をつけてきた国に取られてしまうようになりました。こうしてスピード感を失った日本の企業は急速に世界のマーケットを失ったのです。
もっと深刻なのは、社会が想定外の事態に対処できなくなったことです。マニュアルには想定外のことについては何も書いてありません。さすがに「世間」も想定外のことについては何も教えてくれません。日ごろから自分の頭で考える訓練をしていないと、想定外の出来事が起こった時、どうしたらよいか分からずパニックになってしまいます。ところが今日の私たちの日常は、東日本大震災、異常豪雨、超大型台風、新型コロナ・パンデミックと、いまや想定外の出来事ばかりではありませんか。私たちは間違いなく「マニュアル/世間主義」が通用しない時代に生きているのです。
しかし何といっても「マニュアル/世間主義」最大の問題は、それが私たちの間に失敗をけっしてユルサない空気を作ってしまったことです。許されたことだけやっていれば間違いないと考えるうち、私たちの社会は、失敗はけっしてあってはならないこと、そしてあり得ないこと、と考えるようになりました。コロナに感染したら、それは失敗であり、社会的にユルサレないのです。私は長年、応用物理学会という学会で、大学発のアイディアをベンチャー化するのを支援してきたのですが、その中で、失敗に対する考え方が日米で随分違うことに気付かされました。アメリカでは若者たちが元気よくベンチャービジネスを立ち上げています。アップルもマイクロソフトもグーグルも、みんな元は学生ベンチャーです。アメリカのベンチャー事情に詳しい人に一体何が違うのですか?と尋ねますと、こう言われました。アメリカのベンチャーだって結構な確率で失敗する。でも大きく違うのは、失敗してもそんなに人に責められないことだ。アメリカでは若者が投資家の前でアイディアをプレゼンして資金を獲得することが多いけれど、そのとき、過去の失敗はむしろ勲章として評価される。失敗から多くを学べることを知っているからだ――というのです。かたや、日本では失敗は許されません。「一回やらかしたら終わり!」なのです。
一体どうすればいいのでしょうか?私は、日本語のユルスには「許可」の許という漢字だけでなく、もう一つ、「恩赦」の赦という漢字を持っていることを思い出すべきと思います。今日の聖書に三回も出てきた「赦す」、無罪放免の「赦す」です。これら二つの字は指し示す行為の時間の向きが違います。「許可」のユルスはこれから行う行為を認めることです。これに対し「無罪放免」のユルスは、すでに犯してしまった失敗の罪を問わないことです。この点で私はドリカムの吉田美和さんに文句があります。あの歌に出てくる「なんでみんな 許さないの?」のユルスに彼女は許可の許を使っていますが、それは間違っています。「たったイッカイやらかしたことぐらい赦せよ」というのが彼女のメッセージなのですから、無罪放免の「赦す」を使うべきでした。ちょっと残念です。
この不確実性の時代を生き抜くためには、私たちは、自分の行動原理にこのもう一つ「赦し」を組み込むことがどうしても必要です。人間には欠けがあります。時には失敗もします。想定外のことも起こります。それもしょっちゅう起こります。こうした時代を生きる私たちは、失敗を赦す生き方を身に着ける必要があります。新型コロナウイルスの時代ではなおさらのことです。ちゃんと衛生対策をしていても感染することはあるのです。そんな時、互いに裁きあうのではなく、互いに赦しあうことが大切です。そうでないとコロナと戦い続けることはできません。
でも一体どうしたら人を赦すことができるのでしょう?今日の聖書で弟子ペトロはイエス様に「自分に対して罪を犯した人を何回まで赦すべきでしょうか」と尋ねています。皆さんは人を何回まで赦せますか?せいぜい一回でしょう。一回でも無理!と言う人も多いことでしょう。ペトロが「7回までですか?」と言った時、彼はイエス様に褒めてもらおうと、十分安全を見込んで7回と言ったのだと思います。彼のドヤ顔が目に浮かぶようです。しかしイエス様はそんなペトロの心を見透かしたかのように、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。要するに無限回、赦しなさいということです。そしてイエス様は、ある譬え話をお話になりました。――ある王様に家来がいた。その家来は王様から一万タラントン、今で言うと6000億円という膨大な額の借金を棒引きにしてもらった。それなのにその家来は、王様から借金を棒引きにしてもらったその足で、友達に貸していた100デナリオン、今で言うと100万円を強引に取り立てようとした。これを知った王様は怒ってその家来を牢屋に入れた、という話です。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」王様はそう言い放ちます。
イエス様のこの譬え話のメッセージは、1万タラントンと100デナリオン、6000億円と100万円という二つの金額に明らかです。6000億円の借金なんて、どう考えてもこの世の数字とは思えません。始めから返却不可能な額として語られています。聖書全体のメッセージを踏まえると、この数字は私たちが神様に対して負っている罪の大きさを表していると分かります。聖書は、私たちの罪という無限大の借金は、主イエスが十字架にお架かりになる事によって帳消しにされていると伝えます。そしてその事を想えば、人の100デナリオンの失敗も赦せるはずではないか、と私たちに訴えるのです。「神を畏れ、隣人を愛する」をスクールモットーに戴く私たちは、自分たちが1万タラントンを神に赦していただいた事を知る者となりたいと思います。それが神を畏れるということの意味です。そして、そのような者として、私たちは100デナリオンの失敗をしてしまった自分、そして隣人を愛する者となりたいと思います。